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【ウガヤ王朝】漢民族の成り立ち【北匈奴とフン族】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※このnoteはYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回も引き続き遊牧民についてお話しさせて頂きます、宜しくお願い致します。

前回はキンメリア人、スキタイ人、サルマート人の歴史について見ていきました。今回はそこから時代を進めて匈奴や月氏、サカ族の歴史について見ていきます。


匈奴は紀元前4世紀末からモンゴル高原で活躍し、紀元前2世紀初期には冒頓単于の下で勢いが最も盛んになりました。

匈奴は戦国時代からしばしば華北の北境に侵入し、その後秦に撃破されましたが紀元前3世紀後半には現在の中国北部、内モンゴル自治区の中央南部にあるオルドス高原に進出し、
さらに紀元前176年には月氏、樓蘭(ろうらん)、烏孫(うそん)、呼掲(こけい)や、その周辺の26国を平定し匈奴の領土としました。


このころ匈奴は東モンゴルの東胡から西は東トルキスタン、ジュンガリア(ズンガリア)という新疆ウイグル自治区の北部地域にいたる広大な領域を支配していました。


中国最初の正史と云われる[史記]やそれを継いだ[漢書]の匈奴伝には、匈奴の文化や中国との関係が比較的詳しく記されています。


これらの書物によると匈奴は単に軍事的に強大であっただけでなく、商売の才能にも優れており、交戦中の敵国であっも、キャラバンを送り込み積極的に交易を行っています。


絹馬(けんば)交易というのは、当時交戦中であった中国にキャラバンを送り込み、匈奴の馬と中国の絹織物とを交易しています。


紀元前3世紀の中頃、現在のカスピ海東南部を中心にしてパルティア王国(安息)という国が建国されましたが、匈奴はこの王国と盛んに絹貿易を展開していたことが知られています。


[史記]大宛伝には次のような一節があります。
《烏孫から西方へパルティアに至るまでの道は匈奴に近い 匈奴の使者は単于の手紙を一通もっていれば途中の国々は食糧を整えて伝え送り 決して妨害しない》とあります。

この一文は匈奴がパミール高原より西方の国々と交易していたことを示す史料となり、これが絹と西方の珍しい品物との交易であったことは匈奴の墳墓群ノインウラ遺跡から出土した遺品をみても明らかです。


匈奴は南は中国、西はパミール高原以西の国々とさかんに交易していたということです。

特に紀元前176年頃、匈奴が西域諸国を支配してからは冒頓単于はカラシャールという現在の新疆ウイグル自治区、焉耆回族自治県やコルラ地方に僮僕都尉(どうぼくとい)という地方軍事長官を置き西域諸国から税を取り立てたと言われています。


南ロシアや西アジアの国々はこうした草原のシルクロードと呼ばれる交易路を利用し、中国の辺境地帯と密接な文化交流を行なっていました。


匈奴は獫狁(けんいん)や陸渾(りくこん)などとも呼ばれ、匈奴という漢字はキンメリの漢訳だと主張する学者もいます。

この匈奴と歴史的にも地域的にも接近していたのがスキタイという騎馬遊牧民です。

さらに匈奴と並んでシルクロードを支配した月氏という遊牧民族は別名禺氏(かし)とも書かれているので、紀元前2000年頃にバビロンを支配したカッシート人のことではないかという説がヨーロッパの主流になっていました。


秦漢時代における匈奴に関しては後世に編纂された中国側の史料はたくさんありますが、匈奴の民族自身が記した史書は何も残されていません。

[世界大百科事典]によれば、匈奴は紀元前3世紀末より約5世紀間にわたって蒙古に繁栄した遊牧騎馬民族、とあります。

周の記録に見える遊牧民獫狁(けんいん)の子孫であろうと言われていますが、確証はありません。

しかし匈奴は既に中国の戦国時代には現在の内モンゴル自治区西南部に存在したオルドスという土地を根拠地として盛んに燕、趙、秦の北境を侵しています。

スキタイ族に発生した騎馬戦法を東アジアに持ち込んだのは彼らで、従来馬に引かす戦車と歩兵とによる車戦、歩戦をもっぱらにしていた中国人は彼らに騎馬戦の技法を学びました。

秦代、匈奴は秦将の蒙恬(もうてん)に破られ、オルドスを捨てて陰山の北に逃れましたが、秦末期には再びオルドスを回復しています。

この時、冒頓単于は武略にすぐれ、月氏、東胡、丁零などの遊牧諸民族を攻め破って蒙古全域を支配するに至ります。

紀元前200年匈奴の冒頓は陜西省大同の北に王廷を設け、漢の北辺を荒らしたため漢の高祖はみずから大軍を率いて匈奴を討とうとしましたが、32万人の匈奴の騎兵によって大同の南東、白登山に包囲されること7日に及びました。

高祖はようやく身を脱して逃れ、使者を派遣して匈奴に和平を請い、皇帝の娘を匈奴におくって単于の后妃(閼氏)とし、年々多額の絹織物、酒、米などを贈ることを約束しました。

これにより冒頓は漢を侵略することをやめ、力を東トルキスタン諸国の経略にそそぎ、これらの諸国を貢納国としました。

以後漢は和解の約束を守り毎年贈与を怠りませんでしたが、匈奴はしばしば漢の北境を侵略したので、漢の武帝はついに紀元前129年に軍を出して討伐を開始し、約10年間漢軍は蒙古の各地で匈奴軍を破りました。


しかし漢は軍の費用に窮して疲弊し、かつ匈奴は依然として漢の北辺の略奪を繰り返しました。

紀元前60年頃匈奴は単于の位の継承をめぐって内紛を起こし、5人の単于が並立するという分裂状態になりましたが、やがて郅支(しつし)と呼韓邪(こかんや)の2人の単于の対立となり、呼韓邪単于は漢にくだって漢の保護を受けたので郅支単于はこれと対抗出来ず西方の康居国を奪ってタラス河畔に移りました。

郅支は紀元前36年、漢将甘延寿に討たれましたが、一方の呼韓邪は匈奴を再び統一し、以後漢と匈奴の和親は継続しました。

新(王莽)は烏桓族の匈奴への貢納を妨げるなど匈奴の恨みをかうことが多く、匈奴は中国に侵略を加えましたが後漢の初めに匈奴に内紛が起こり、日逐王比は自立して単于となり諸部を率いて後漢の光武帝にくだりました。

彼もまた呼韓邪単于と号し、後漢の光武帝に許されて長城内に移り住み、その諸部は後漢の雲中などの諸郡に分かれて住み、中国の守備に任じられました。

この後漢の光武帝に降った側の匈奴を南匈奴と称し、蒙古にとどまった従来の匈奴を北匈奴と称しました。

南匈奴には後漢より官吏が派遣され、その監視に当たりましたが南単于の諸部族統治は存続しました。

しかし魏の時代になり南単于が魏の都に抑留され南匈奴は5部に分割されました。

南単于の一族中から魏が任命した5人の都尉という官職と中国側の官職である司馬によって分治されることとなり、これが晋や五胡十六国の時代まで続きます。

五胡十六国というのは、4世紀から5世紀初めの中国北部に興亡した民族、国家の総称です。

五胡とは匈奴・鮮卑・羯(けつ)・氐(てい)・羌(きょう)の5つのことで、十六国とは北魏末期の官僚の崔鴻(さいこう)が編纂した[十六国春秋]に基づくものであり実際の国の数は16を超えていたといいます。

五胡時代の大勢は匈奴の劉淵(りゅうえん)が漢王を称し、氐の李雄が成都王を称して五胡十六国時代が始まります。

5部に分割された南匈奴の五部都尉のうち、漢王を称していた劉淵は北部都尉の官職に就いていた人物です。
また十六国のうち後趙、北涼、夏も南匈奴族ですが北魏の華北統一後は次第に漢人に融合していきます。

一方で北匈奴は鮮卑、丁零族に攻撃され、かつしばしは後漢の遠征軍に撃破されたため、西暦91年オルホン河畔の根拠地を捨ててイリ地方に移り、半世紀間タリム盆地の支配権を後漢と争いました。

そして2世紀の中頃にキルギス地方に西遷したのを最後に中国の史上から消息を絶ちます。

4世紀にヨーロッパに侵攻したフン族は、この北匈奴の子孫ではないかと考えられていますがまだ定説ではありません。

しかし北匈奴の蒙古退去とフン族のヨーロッパ出現の時期が一致していることや、両者の習俗が一致している他、使用言語がともに古トルコ語であること、両者の遺物が極めて類似していること、匈奴という文字はかつてフンに近い音を表す文字であったと考えられていること、さらに五胡十六国時代の匈奴のことを当時のソグド商人がフンと呼んでいたことなどから、少なくとも匈奴とフンとは密接な関係にあるものと考えられます。

匈奴は冒頓、老上、軍臣三単于の時代を最盛期としています。

単于は皇帝の意味で、その下に左右賢王、左右王将などの官があり、王将はみな単于の氏族である攣鞮氏(らんていし)(虚連題)出身で、異姓の貴族である呼衍(こえん)、蘭、須卜、丘林などの氏族は単于一族と婚姻関係を結び、その族長は左右骨都候として国政に関与していました。

毎年3回、王侯・隷属諸種族の君長は単于庭などに会同して天地・祖先・鬼神を祭り、徴税や戦争のことなどを議論します。

文字は有さす、法律は刀を抜くこと一尺及ぶ者その他重罪は死刑、軽罪はくるぶしを砕く、とあります。

戦争で敵の首を得るごとに一巵(いっし)酒が与えられ、鹵獲(ろかく)・捕虜は得た者の所有となり奴隷となします。

単于は北に向かって座り、左を上座として朝夕営を出て日の出と月を拝し、征戦は月の満ちる時に起こして欠ける時に退きました。

一般民衆は穹盧(きゅうろ)に住み、水草を追って遊牧し肉を食し皮革を衣とする貧弱な生活でしたが、王侯は固定家屋を持ち諸国の貢献によって豊富な生活をしていました。

これは文献の情報のみでなく、蒙古、南シベリア各地で発見された住居跡や墳墓の状態からも明らかです。

遺物からは漢の絹布、漆器、ギリシャ風毛織物のほか、匈奴自身が製作したと思われるペルシャ式短刀、スキタイ式やそれに中国の鼎形式を混じた銅鍑、その他金銀装飾品など数々の遺物が発見されています。


中国側の史料では秦代の頭漫単于以前の王名が残っていないため匈奴がどのようか民族であったのか調べるのは困難でした。

[史記]大宛伝には《匈奴が烏孫からパミール以西の安息(パルティア)に至る国々と交易していた》とあり、これはノインウラ遺跡の出土品によって証明出来るので、考古学上、紀元前5世紀から3世紀における匈奴はスキタイとどこかで交わっていたと考えられます。

トルコ民族の歴史学者、護雅夫氏は、匈奴諸族が紀元前5世紀頃に遊牧の騎馬民族として南モンゴル高原を中心として勢力をふるい出したのは、中央ユーラシア草原の西部にいたスキタイから騎馬戦術を中間諸族を通じて学びとったため、と述べています。

中国史料ではスキタイの残党を匈奴、と認識していますが、匈奴の原称である獫狁はキンメリの名を書き写したものとする学説もあり、オーストリアの民族学者ハイネ・ゲルデルン氏は、獫狁は黒海沿岸に住む人々の大移動の一部であるとして、黒海の北方から中央アジアにいたる地域で順次発見された出土品と、中国北境の匈奴遺跡の出土品の親近性を指摘しています。


フランスの歴史学者ルイ・アンビス氏は、この第二次移動の際に東に向かった動きの中にキンメリア人もまきこまれた、あるいは合流したと考えてもおかしくないと述べています。


キンメリア人はキンメルやキンメリ、キンメリオイなどとも呼ばれ、紀元前9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるい、紀元前8世紀から紀元前7世紀にかけて南ロシア、小アジア方面に活躍した遊牧騎馬民族です。

この民族は紀元前8世紀末に東方からウラルトゥの国境にせまり、紀元前7世紀の初めウラルトゥ王国と同盟して印欧系諸族と共にアッシリアを脅かしました。

そこでアッシリアはスキタイと手を結び、これを迎え撃って小アジア方面を圧迫しました。

キンメリア人は西進して紀元前7世紀の半ばごろ一時は小アジアの東部全土を支配しましたがアッシリアは再びこれを征服したということがアッシリア側の記録に伝わっています。

一方ギリシャの記録によれば、キンメリという民族は黒海沿岸の住民と認識されており、クリミア半島のケルチ海峡の西岸を中心にキンメリア人の王国がありましたが、アジアを追われたスキタイがヴォルガ川を渡ってキンメリ地方に侵入し、これを征服したと伝えています。

ヘロドトスの[歴史]にはスキタイ人(スキュティア)の居住していた南ウクライナの地域は、古くはキンメリア人の土地であったことが記されてあり、ストラボンの[地理誌]にはケルチ半島の南岸に住んでいたキンメリア人はスキタイ人によって追い出され、さらにスキタイ人はギリシャ人によって追い出されたことが記されています。

以上のことから、南ロシアにいたキンメリア人が東方から侵入したスキタイによって二分され、一部はバルカン半島のトラキア人と混合しさらにそれらが北西から小アジアに侵入し、一部はコーカサスに南下してこの時にメディア地方にも侵入していたと考えられます。


匈奴の原称は獫狁であり、獫狁はキンメリの名を書き写したものとされているため、匈奴はスキタイより古い時代に黒海沿岸にいた騎馬民族であることが考えられます。



[契丹古伝]では匈奴はシウイツ氏とシウトマ氏の2部族があったことが記されています。

シウトマ氏は頭曼単于で、冒頓単于はシウイツ氏の王として生まれましたがシウトマ氏によってアッシ(月氏)の養子に入っていたため、頭曼単于と冒頓単于は実の親子ではなかったことがわかります。

冒頓単于はアシから逃れて辰沄殷に至り、辰沄殷の援助によってシウトマ氏である頭曼を倒したことが[契丹古伝]によってわかります。

冒頓単于が従順な部下と共に父である頭曼単于に矢を射て倒した説話は有名ですが、そもそも冒頓と頭曼は実の親子では無く、シウイツ氏とシウトマ氏の2部族の派閥抗争があり、これに辰沄殷が関与していた、ということです。


秦の始皇帝は匈奴の侵入に備えて万里の長城をつくったと云われていますが、秦国の母国である大秦国はグレコ・バクトリア王国のことで、この分国または植民都市が中国大陸の秦国です。
※詳しくは「日ユ同祖論」のnoteをご覧ください。

秦の始皇帝以前にシルクロードから華北を支配していたのは、後に漢民族が東方の脅威として蛮族扱いしていた高句麗、大扶余、匈奴、鮮卑などの諸族です。

これらの諸族の歴史を調べると、そもそも華北の地は彼らの故郷であり、高句麗を始めとする鮮卑、匈奴の華北侵攻は祖地奪回の戦いであったことがわかるのですが、中国側の歴史ではこれらを全て蛮族の侵略扱いとして記録しています。

秦によって万里の長城の外側に追放された匈奴というのは秦以前にシルクロードを支配していたキンメリア人やチュルク系諸族ということになります。

秦の侵攻によって伯族は2つに分かれ、一つは秦に従属し、もう一つは匈奴へ入りますが、この時に秦に従属した伯族の王朝が後世の日本の古史古伝に残るウガヤ王朝です。


殷の時代や周の時代は中国大陸にはまだ漢民族は成立していない時代であり、中国大陸に住んでいたのはテュルク系民族、ツングース系民族、チャム族、シャーキヤ族などの先住民です。

大秦国が中国大陸に侵入し秦国を建国したことによって、これらの先住民は古今東西に散っていくわけですが、遼河文明や紅山文化、仰韶(ぎょうしょう)文化、竜山文化は漢民族以前の先住民による文化です。

カラスク文化というのはユーラシア中北部、アラル海からシベリア南部のエニセイ川上流域にかけて栄えた文化ですが、このカラスク文化は西アジアに発達した金属文化の東方流入によって発達し、北狄(ほくてき)や原オルドス青銅器文化からも影響を受けていると言われています。

多数のカラスク文化の典型的な遺物、特に庖丁、二頭立二輪車の模型、土器の文様の直接的な原型は殷の首都から出土した青銅製品やその装飾に見られ、独特なカラスクの石碑の文様が直接殷に由来していると考えられます。また、バイカル湖沿岸では殷の三足土器も発見されています。

年代的には、かつて中国北部に住んでいたテュルク系民族の丁零が殷から影響を受けた様々な文化的要素や青銅鋳型の技術を南シベリアに持ち込んだのではないか、と推測できます。

殷人とチュルク系民族の丁零はカラスク文化によって繋がっていた、ということです。


秦の時代にチュルク系民族は東北に追い出され、苗族は西南に逃れますが、それでもなお中国大陸に残ったチュルク系民族と苗族などがバクトリア人と混血し、漢民族の前身となります。


今回は匈奴を中心に遊牧民の歴史を見ていきました。
ここまできてようやく漢民族の前身が現れます、漢民族というのは比較的新しい民族だということがわかったと思います。

私たちは[史記]という偽書によって中国4000年の歴史と思い込まされていますが、はたして本当にそうなのでしょうか。

古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思っていただいて、ぜひ皆さんも調べてみてください。
最後までご覧いただきありがとうございました。

📖参考書籍📖
E・Dフィリプス著 勝藤猛訳「草原の騎馬民族国家」
護雅夫著書「古代トルコ民族史研究」
ヘロドトス著 松平千秋訳「歴史」
浜名寛祐著書「契丹古伝」
鹿島曻著書「倭人興亡史」「史記解」
宇山卓栄著書「民族と文明で読み解く大アジア史」

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