見出し画像

終戦間際の悲劇【南樺太地上戦】ヤルタ会談による密約【積極的戦闘禁止命令】スターリンの野望【北海道上陸】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※この文章はYouTubeで無料で視聴できます。


今回は日本の領土、南樺太で行われた日本とソ連による地上戦と、北海道占領計画についての歴史を見ていきます。


先ず南樺太の歴史を簡単にまとめると、江戸時代1679年、松前藩が漁場目的として樺太の開拓が進みます。

1809年間宮林蔵が樺太に渡り、樺太は半島ではなく島であることを報告、その功績として樺太西部の海峡を間宮海峡と名付けられます。

1853年ロシアは北樺太のクエグト岬に国旗をあげ領有を宣言します。

1859年ロシアは軍艦7隻を率いて品川に来航、樺太全土がロシア領であることを主張しますが幕府側はこれを拒否します。

1865年岡本監輔が樺太最北端に「大日本領」と記した標柱を立てます。

岡本監輔は坂本龍馬と意気投合し蝦夷地開拓に命を燃やした官吏(かんり)でした。

1874年樺太・千島交換条約によって樺太全土はロシア領とし、得撫島(うるっぷ)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡することを約束しました。

1905年日露戦争後の講和条約で北緯50度以南の樺太が日本に返還されます。この日本領を南樺太といい約40万人の日本人が生活していました。

そして40年後の1945年に悲劇が起こります。

終戦間際の8月9日にソ連は満州に侵略を開始し、2日後の11日に南樺太への侵略を開始しました。

ソ連軍の南下は8月25日までの15日間続きます、厳密に言うとソ連が日本に対して宣戦布告したのが8月8日の夕方で樺太におけるソ連軍最初の攻撃は8月9日の国境警察、武意加(むいか)巡査部長派出所での射撃と銃砲撃です。

そして11日に南下を開始します。

そもそもなぜソ連が火事場泥棒のように日本に侵略してきたのでしょうか。

1945年ソ連が対日参戦したら南樺太と千島列島をソ連領とする密約を結んだ会談のことを米英ソヤルタ会談と言います。このアメリカ・イギリス・ソ連間での密約によって約束通り攻めてきたと言うことです。南樺太の先にある北海道の侵略計画もありました。

※1952年アメリカはこのヤルタ会談密約の法的根拠を否定しソ連を裏切っています。

ヤルタ会談後、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破り南樺太と千島列島、北方領土の不法占拠が始まります。

1951年サンフランシスコ平和条約で南樺太と千島列島の権利・権限及び請求権を放棄することを日本は受諾しますが、ソ連側は拒否したためこの条約の当事国でありません、南樺太と千島列島の引き渡し先は未記載であり領有権は国際法上はいまだ未定のままとなっています。

南樺太は平穏で食糧事情も悪くなく、 アメリカと戦争が始まっても空爆がないことから内地の地域で家を焼かれた者の中で樺太にいる縁故者を頼って安全な樺太に疎開してくる人も少なくありませんでした。住民たちの多くは、日ソ中立条約に安心し、ソ連が樺太に攻めてくることはないと考えていました。

ソ連は革命後国内が安定するに従って軍事力を飛躍的に増大させています。

明治6年の満州事変や昭和12年の支那事変などの動きにもその都度反応して極東の兵備を増大させサハリン方面には一個師団を常駐させました。

その一方日本側は日ソ基本条約を遵守し南樺太に軍隊を配備していませんでした。国境付近は観光地化され当時は「樺太天国」という言葉が存在する程日本側は陽気に生活していました。

そんな国境の雰囲気が変わる転機となったのが昭和13年です。

この昭和13年には樺太の北緯50度線をはじめとする満州、朝鮮での日ソ国境付近でソ連機が越境したりソ連側からの銃撃事件が発生するなど緊張が高まっていました。そして翌年4月、政府は「国境取締法」を交付し、樺太庁長官は国境に接する土地と水面は範囲を決めて人の出入りを制限できるとし、その距離を20㎞と定めました。そしていよいよ日本側も国境に程近い古屯に一個大隊を配置しました。

そんな中昭和16年に日ソ中立条約が成立し、互いに侵略行為は行わないことを国際的に約束します。

しかし昭和19年の夏以来満州国境付近に置けるソ連軍の不法行為はさらに頻発していました。

昭和19年12月8日満14歳以上の中学生にも召集が下され、樺太は次の戦場という空気感が漂っていました。

そしていよいよ地上戦が始まります。最初に本格的な戦闘状態に入ったのは国境に一番近い半田陣地です、ここでは約100名の2個小隊と警察隊でソ連軍1個軍団を丸一日食い止めますが、ほぼ全員が戦死を遂げます。

翌日12日朝、ソ連軍は南下を再開しますがこの時、日本帝国陸軍史上初の奇妙な命令が発動されます。それが「積極的戦闘禁止命令」です。

現地部隊の将兵はこの命令の解釈に苦しみ現場の混乱を招きました。

この命令は直ぐに解除命令が出されましたが、通信が途絶していたため前線には届きませんでした。

そのあとも南下はさらに進み、16日には恵須取での戦闘が始まります。町は焼け野原となり空爆の度、ソ連機によって逃げまどう町民に機銃掃射が行われました。

生き延びた恵須取(えすとる)の人々は約24㎞離れた上恵須取に逃れ、そこから東海岸経由で大泊方面へ脱出をする人が大半でした。

内恵道路を使用し樺太の屋根と呼ばれた「樺太山脈」を徒歩で越えるため、壮絶な避難になりました。

住民の避難誘導は在郷軍人や役場職員が行い秩序正しく避難して行くはずでしたが、それも長くは続かず極度の疲労のため他人のことを構う精神状態ではなくなりました。結果集団から離脱してしまった者が多く、家族から泣く泣く見捨てられた老人や子供、病人が多発しました。

恵須取警察署で警官として勤務していた帆苅正氏は当時「避難民を誘導しながら上恵須取に集結するように」という命令を受け上恵須取の巡査部長派出所に到着しましたが、避難所はすぐに戦場に変わります。三箇所の集結場所は全てソ連機の爆撃で粉砕され、恵須取と上恵須取の住民はさらなる避難が始まります。

帆苅警官は内恵道路を行く避難民の護送の任務につくことになりました。

避難民は牛車やリアカーに積めるだけの荷物や子供、老人、病人を乗せ、歩ける者は背負えるだけの荷物と両手に持てるだけの荷物を持ち、子供は手をしっかりと握って歩きました。中には子供を紐で数珠繋ぎにし、紐の端を自分の腰にしっかりと巻きつける母親もいました。

樺太山脈の道路で一番高い峠は標高672mあります。

避難民と共に徒歩で樺太山脈越えをした尾崎支庁長は道路の様子を次のように回想しています。

〜避難民の列はその日もまだ続いていた。避難民は始め米と着替えと布団1枚を背負ったり手に持ったりしている。しかし疲れてくると布団を捨て、米を捨て着替えを落としていく。日中は2、30分おきの空爆で林の中に逃げ込んだり、出て歩いたり、そのうちに子供がはぐれる。はぐれると探しに戻る体力もない。私もそんな子供2人を拾って内路に出たが道のりは長く過酷であった。

ソ連機は低空飛行で避難民に対し地上掃射を無差別に加えた。避難民の中にはこれ以上歩くことが出来ず、家族に迷惑はかけれないと自らその場に残り死の訪れを待つ老人や病人もいた。取り残されるかもしれない不安から足手まといの幼子を断崖から突き落としたり、草むらに乳児を捨て僅かなミルクを残していく母親などもいた。また、夜に赤子が泣き出すとソ連機に聞こえるからすぐ子供を静かにさせるか殺せ、と母親に迫る者もいた。

冷静に考えればプロペラの音でうるさい航空機のコックピットに乗っている飛行士に地上の赤子の声など聞こえる訳がない。

しかし避難民から正常な判断力を奪い神経質にさせる程人々の心は追い詰められていた。このような避難行に心身ともに疲れ果てた人々の中には自決用の手榴弾や劇薬を用いて一家自決が相次いだ。〜

避難民の一人であった金沢正信氏は内恵道路上で自身が見た光景を次のように回想しています。

〜ずぶ濡れになっても歩くだけである。立ち止まったらそのまま眠り夏とは思えない冷たい雨でこごえ死んでしまいそうだった。沿道は雨で重くなって投げ捨てた荷物が散乱している。位牌(いはい)から何から持っていた物一切が捨てられた。「これをやるから誰か連れて行ってくれ」と老人が札束を握って雨の中で泣き叫んでいても誰一人見向きもしない。親とはぐれた小学一年生の子供が教科書一冊を小脇に抱えてトボトボと歩いていく。この子は疲れ果てて道端で眠るように死んだ。下の子を背にくくりつけ取り乱した格好で引っ立てて歩いている母親。上の子供はふらふらとして足を滑らし谷底に落ちていったがどうなったかわからない。頼りになるのは全て自分一人の力である。〜

高川うら子さんも自らが目の当たりにしたものを次のように回想しています。※飯場(はんば)=作業員用の宿泊施設

〜内恵道路沿いの飯場でうとうとする間も無く、19日早朝私たちは出発した。道端に赤ん坊の死体があった。

母親に捨てられたその死体はまぶたを泣きはらし体にかけていった布を小さい右の手で握っていた。声をふりしぼって泣いている孫のそばで「孫と2人足手まといになるって捨てられた」と弱々しく泣いている年寄り。疲れるとまず担いできた布団から綿を捨てたというが、この孫とおばあちゃんは綿にくるまって泣いていた。

靴が擦り切れ足の裏に石が刺さって血をにじませながら放心してうろついている老人もいた。しかし私たちだってなんともしてやれない。乾パンをやって「気をつけてね・・・」という言葉が精一杯。そしてその言葉の空虚な響きがやり切れず急いで立ち去るのだった。

近所のおじさんがひたいを真っ赤にした見知らぬ少年を連れて歩いていた。親たちは崖から突き落として去っていったのだという。しかし少年は死ななかった。

この峠の登りでは力の限界にきた人たちがこの様に子供や老いた親まで捨てたのであるから、米、衣類、位牌など身につけていた物はことごとく投げ、全く身一つで峠を越えていったのである。投げ捨てた品々が路上何キロもの間に散らばっていた。飯場を3㎞程進んだろうか。

工藤さんの家族4、5人が異様な雰囲気に思わず声をかけると「今、お父さんを林の中に置いてきた」と泣いている。病弱な人で雨のため衰弱し歩けなくなったので「私に手をとられていると子供まで死なしてしまうから、捨てて逃げてくれ」と言ってきかないのだという。

やむなくその付近に捨ててあった布団、綿などをかき集め、体を包む様にして食事も置いて林を出たがとてもあのまま立ち去る気になれないと奥さんや子供たちは涙声であった。自ら捨てていけと言ったご主人の心情を思うと言葉もなかった〜

【知取での停戦交渉成立】

八方山、上敷香で停戦交渉をするも成立せず、22日正午過ぎ、ようやく知取(しるとる)で日ソ停戦交渉が成立します。

しかし停戦協定成立後に南樺太の中心地である豊原が空襲を受けます。

豊原市は樺太庁からの命令により、至る所に大きな白旗があがっていました。豊原駅もその例外でなく駅の屋根に三本立てられていました。

当時の豊原は人口が約3万7千人の南樺太唯一「市政」が敷かれていた町で市内は札幌の様に基盤の目状に設計され昭和18年には内地に編入されていました。豊原駅はその町の西側に位置していました。

ソ連参戦後、国境地帯の敷香や恵須取から大泊港を目地して南下してきた人々、そして20日の真岡襲撃による避難民など、上陸後の一方的な攻撃から着の身着のままで逃れてきた人々が、交通の要衝でもある豊原にあらゆる手段を用いて避難してきました。

しかし緊急疎開船の出港地の大泊町内は緊急疎開への乗船順番待ちの避難民で溢れかえり、町内の施設では収容しきれず、22日朝大泊駅長からの要請で疎開列車は豊原止まりとなり、乗客は豊原で下車させられました。

そのためおよそ3万人もの避難民が急遽市内の学校、寺院、映画館などに収容されました、それでも駅前の広場には数千人の避難民がいたと言われ、町中はそれらの人々でごった返していました。

23日、豊原市は30度を越える暑い日でした、この日ソ連軍は停戦協定成立後にも拘わらず豊原駅及び周辺にいる民間人に対し無差別攻撃を加えました。

当時、豊原警察署で勤務していた池田氏によると

〜ソ連機は執拗にも三度飛来し、豊原駅構内の鉄道用品庫を始め、その付近に焼夷弾を6、7発投下したため大火災になり駅前から南方を焼き尽くした〜

と回想しています。

一般の人々は終戦から1週間が経ち、町中には白旗が上がりしかも昨日発生した落合駅前襲撃を知らず危険が迫っているという事は全く考えにありませんでした。そして駅前には一刻も早く列車に乗り北海道へ脱出しようと座り込む人も大勢集まっていました。その中から、なんとか大泊まで列車で行こうと乗客の代表3名は激しい剣幕で駅長室で駅長を相手に談判していました。

その時です、豊原駅の対空監視係責任者の丸尾氏が駅長室に飛び込み「敵機襲来」と叫びました。この時の体験を駅長はのちにこの様に語っています。

〜今知取で停戦交渉中であり、それに屋上には白旗もある、まさかと思いました。ところがその瞬間、大音響が連続して駅舎が揺れました。私は思わず机の下に身を伏せましたが、駅長室の線路側の窓ガラスがみじんに砕けて飛び、壁にかけてあった縦1m横5mもある大きな額が背中の上に落ちてきました。

この額は大正時代に鉄道大臣をした大木氏の筆で「国鉄精神」と書いてあったものですが、この国道精神にガラスの破片がいっぱい突き刺さっていました。あの3人の客の姿はもう見えませんでした。

この間、爆発音と機銃掃射のダダダという連続音、それに飛行機の爆音で耳もつぶれそうでした。爆発音が今度駅前広場の方でしたので、これは大変だと思い飛び出しましたが、一目広場を見て息がつまりました。

ひどいというも愚か、無残に腹や胸をえぐられた婦人、子供、老人がまるで魚河岸のマグロの様に一面ごろごろ転がっているのです。ふと自分の足元を見るとちぎれた足が散らばっている、道には血が一面流れている、

「危ない駅長さがれ」と駅員の誰かが腕を引っ張ったが、その時敵機2機はまだ駅の上をぐるぐる回りながら執拗に突っ込んできてはダダダと機銃掃射を繰り返していたのです。

ともかくあまりのショックにうまく言い表せませんが生き地獄とはこんなのをいうのでしょう。

この爆撃は随分長く感じましたが2、30分は続いたでしょう。花壇の防空壕は2つが完全に壊れていました。それから兵隊や消防団員がやって来て、救出作業が始まったわけですが、担架が足りずムシロを持って来て死体や怪我人を運びました。〜


避難民が密集する中に爆弾が投下され、その爆発で瞬時に命を奪われ、身体が空に吹き飛ばされ、地表に血の雨を降らすという地獄絵図が停戦協定成立後に豊原 駅前広場に現出しました。

空爆直後に豊原駅前に駆けつけた者の中には樺太新聞の大橋良一記者もいました。彼曰く「駅前広場には数百名の引き揚げ婦女子が整列していた、最初の爆弾がそれを目がけて落とされた、駅前広場の中心部にはいくつかの防空壕があったが爆弾が落ちて掘り起こされた様になっていた。広場全体に引き揚げ婦女子の風呂敷包みやリュックが何百個も置かれてあり、所有者が整列していたことを示していた。

この惨劇の被害者は知取方面からの婦女子が主で、大泊港が満員のため一時豊原に降ろされた地方人が多かった、空爆で何百の人が死んだのか、それさえも判らないほど町は混乱していた。」といいます。

この豊原襲撃後もソ連軍の侵略は続き、8月25日南樺太全土が占領されます。無差別攻撃だったため一般市民の犠牲者は約10万人だと言われています。

【ソ連の北海道上陸計画】

平成2年12月25日の読売新聞一面に、ソ連側の北海道上陸・占領計画についての記事が掲載されました。これは読売新聞が当時の

ソ連 軍事史研究の第一人者と言われていたドミトリー・ボルコゴノフ 

ソ連国防省 戦史研究所所長との会見を行った際の記事です。

所長によると、スターリンは1945年8月9日のソ連軍の対日参戦の直前、ワシレフスキー極東軍総司令官に対し、「満州侵攻と並行してサハリン(南樺太)クリル(千島)列島の解放だけでなく北海道の北半分を占領せよ」との命令を発したと言います。

しかし8月18日アメリカのトルーマン大統領は「北海道北部をソ連の占領地域に含める事は拒否」という回答をスターリンに降しました。

この回答をスターリンは無視したため極東ソ連軍は予定通りの侵略を続けます。そして20日に無防備であった真岡を無差別攻撃し多くの民間人が犠牲になります、

さらに22日北海道留萌(るもい)沖での疎開船 砲雷撃が起こり2隻が撃沈、1隻が大破し1708名の犠牲者を出します。

米軍は千歳空港に陸軍航空隊を展開させ、大湊には機動部隊を進駐させソ連軍が北海道に上陸できない様にしています。この時北方領土側の帯広、美幌(びほろ)町の飛行場には進出しない事により北方四島の占領を黙認する意志も示したと言われています。

8月23日ついにスターリンは北海道上陸作戦の中止命令を出しました。

北海道はアメリカが占領する日本の領土となりましたが、戦後76年間見落とされ続けて来た事実があります。それは樺太防衛の任にあった第88師団将兵の命がけの奮戦です。

国境地帯を守備していた歩兵第125連隊の将兵は8月19日に国境地帯における停戦協定が締結されるまで、北樺太から侵略して来たソ連軍主力部隊を見事国境から約16㎞地点の古屯で食い止めていました。

この国境地帯での抵抗は南樺太北部、特に国境地帯からの民間人脱出に大きく貢献しました。また、8月20日の真岡上陸による無差別攻撃を真岡と豊原を結ぶ山道がある熊笹峠で支えた歩兵第25連隊の将兵の活躍も忘れてはいけません。この連隊の兵士の中には召集解除により北海道への緊急疎開船に乗船していながら、ソ連軍の真岡上陸を聞いて直ちに下船し部隊に戻った方々や、再会した家族の元から再び部隊に戻った方々の犠牲的行為があったことを忘れてはいけません。また、真岡から逃げて来た住民を豊原方面に逃がすため、その進路上にある荒貝沢、熊笹峠で不十分な火力と兵力で戦った将兵の方々もいました。

指揮官である菅原少佐は「我々軍人は樺太住民のために、この峠を死守する。敵をこの峠より一歩も入れてははらぬ。住民全員が北海道に渡るまで戦うのが我々軍人の務めで有る。」この様に訓示を行いました。

ソ連軍が北海道上陸を断念したのは、米軍を無視してまで北海道上陸を決行できない、という思いも大前提にありましたが、それでも南樺太で決死に抵抗した方々の存在を忘れてはなりません。

樺太での戦闘で生き残った者たちは樺太やシベリアの強制収容所に送られ、言葉には言い表せない程過酷な抑留生活を体験し、帰国してからは「民間人を見捨てて逃げた」という誤解に基づく批判を甘受し続けた方々も大勢いらっしゃいます。

終戦直後は言論統制によって情報が制限されていましたが、現代は当時の情報が順に開示されています。南樺太で戦死した方々の名誉を回復し正しい歴史認識を学ぶことが平成の時代に生まれた私たちの義務なのではないでしょうか。

下記に記載の参考書籍も是非読んでみて下さい、最後まで読んで頂きありがとうございました。


参考書籍

藤村建雄著書「知られざる本土決戦南樺太終戦史」

「証言・南樺太最後の十七日間」

渡辺明著書「南樺太を忘れるな」

御田重宝著書「シベリア抑留」


余裕のある方はサポートして頂けたら嬉しいです☆*