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【古代文字のルーツ】秘伝していた氏族〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※この文章はYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回は神代文字のアヒルクサ文字とアヒル文字についてお話しさせて頂きます。宜しくお願い致します。


【アヒルクサ文字】
まずアヒルクサ文字について詳しく見ていきます。
アヒルクサ文字で全巻記されている古文書には[美社神字録]と[玉置古文書]があります。

[美社神字録]はアヒルクサ文字と阿波文字が混ざっており、[玉置古文書]は紀伊熊野の玉置神社に秘蔵されていた古文書です。

アヒルクサ文字は修験道の山伏が使用していた文字でもあり、各所の神社の御朱印や奉納文、歌に残されていますが、幣立神宮の石板に刻まれた、ひふみ祝詞や鶴岡八幡宮の石碑に刻まれた文字などは有名だと思います。

アヒルクサ文字はモノノベ文字、タネコクサ文字、阿波文字とも似ているため何らかの相互関係があると考えられます。

モノノベ文字は物部守屋の一子那加世の子孫として続く唐松神社の60代目当主によって公開された[天津祝詞の太祝詞]が書かれていた文字です。
よく見ると豊国新字に似た文字もありますが、真ん中の部分は
《ヒフミ ミフヒ ヒフミヨイムナ ナムイヨミフヒ ヒフミヨイムナヤコト》
1~10 と10~1の数文字
《コヤナムイヨミフヒ ヒフミヨイムナ ナムイヨミフヒ ヒフミ ミフヒ》
と読めます。

[九鬼文書]では物部守屋と大中臣牟知麿(むちまろ)が蘇我馬子の一党に襲われ現在の秋田県、羽後国に隠棲したとあり、彼らがアヒルクサ文字の一種と思われるモノノベ文字を秘蔵していました。

アヒルクサ文字は古代の南アジア西北部および中央アジアで用いられたカローシュティー文字に類似しています。

この文字はペルシャのアケメネス王朝が北西インドを領有したときにブラーフミー文字から分かれたものと考証されており、紀元前3世紀頃のアショーカ王碑文に刻まれています。

「中央アジア踏査記」という書籍にあるオーレン・スタインの調査団によれば、
カローシュティー文字は3世紀前後までパキスタンを中心に使用されていたため、カローシュティー文字の祖形であるブラーフミー文字もインド固有の文字と考えられていましたが、これらはセム系文字がアラム文字の影響を受けていることが判明しました。
アラム文字は紀元前7世紀頃インドに流入したものでありブラーフミー文字に推移転化したことが実証されるに至ったと発表しています。

江戸後期の国学者平田篤胤は[神字日文伝(上)(かんなひふみでん)]でアヒル文字四十七音字について次のように説いています。
《天児屋根命の真伝なり、対馬国の卜部、阿比留氏(あびる)、内々にてこれを伝ふ。秘すべし》
《アヒルクサ文字(薩人書)はアヒル文字(肥人書)の草書体である》とあります。


【アヒル文字】
アヒル文字は太占の兆形、マチガタの組み合わせによって作られたもので、[神字日文伝(上)]にあるように対馬国の氏族である阿比留氏卜部家が所有していたアビル文書に用いられた文字です。

元来、対馬は本拠地任那として殷の亀卜で有名な土地であり、卜部の祖は中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)又は雷大臣(いかつおみ)とある通り元々は金官加羅、新羅、安羅、多羅などのアマの王朝の領域で北方系の文字です。

長野県北安曇郡にある大宮諏訪神社の木版や同じく北安曇郡葛草連(くんぞうれ)の念仏供養碑からはアヒル文字が刻まれていて、変形している文字もありますが、これらが発見された地名にはわかりやすく安曇(阿曇)とあるのでアヒル文字を知る阿曇氏の祠官、僧侶などによって刻まれたものだと推測できます。


【アヒル文字とブラーフミー文字】
アヒル文字に似た文字のひとつとしてインド系のブラーフミー文字があります。
この文字はカローシュティー文字の祖形でもあり、梵字や悉曇(しったん)文字として識られています。

平田篤胤はアヒルクサ文字をアヒル文字の草書体としていましたが、カローシュティー文字に類似しているアヒルクサ文字の祖形がブラーフミー文字に類似したアヒル文字ということになります。

北方大陸経由のアヒル文字に対しアヒルクサ文字はフィリピン古字やマレー文字とも類似していることから南方経由で日本列島へ入ってきた文字ではないかと考えられます。そうすると祖形の関係はあるものの、アヒルクサ文字が直接アヒル文字の草書体となった可能性は低いのかもしれません。

ブラーフミー文字とアヒル文字が類似している事と、アヒル文字とハングル文字(諺文)が同系であることからも、日本で発見されるアヒル文字は加羅(伽耶)諸国の民族の中で古代インドにルーツを持つ人達が日本列島へ持ち込んだ可能性があります。古代インド十六大国と朝鮮半島の関係を見ると、金官加羅の始祖と伝えられている首露王(しゅろおう)の妃がアユダ国出身の許黄玉(きょこうぎょく)であること、アユダはアヨーディヤでインド十六大国の中のコーサラ国初期の首都です。

アヒル文字を代々秘蔵していたのが対馬国阿比留氏や、筑紫の安曇氏でした。
文字自体は古代インド十六大国にルーツを持ち、これを日本列島まで持ち込んだのは倭人諸国(伽耶諸国)、又は邪馬台国連合の中でも金官加羅の人々であったと推測できます。

金官加羅の分派である新羅のことを出雲口伝では“辰韓の王家が断絶し家来が新羅国を起こした”とありました。
金官加羅又は辰韓の本家だったのが中臣なので中臣烏賊津使主が対馬国でアヒル文字を秘蔵していたことに繋がります。

朝鮮半島では、15世紀半ばまで朝鮮語を表記する固有の文字を持たなかったとありますが、半島の古文書[桓檀古記]には《正音三十八字を譔(えら)ばしめ、これを加臨土(かりむど)と為す》としてこのような文字が記されています。

当時文字を持っていた民族は朝鮮半島にいたと思いますが、高麗が新羅に代わって朝鮮半島を統一し[三国史記]が成立した時点で多くの古文書が焚書にされ古代文字も失われてしまったのかもしれません。


【まとめ】
今回は神代文字のアヒルクサ文字とアヒル文字について見ていきました。
アヒルクサ文字はカローシュティー文字に類似していて、日本にはアヒルクサ文字で書かれた古文書や神社の御朱印、奉納文、石板などがありました。
アヒルクサ文字の一種と思われるモノノベ文字を秘蔵していたのが物部守屋と大中臣牟知麿(むちまろ)だったので彼らのルーツとアヒルクサ文字は関係がありそうです。

これに対しアヒル文字はブラーフミー文字に類似していて、この文字を秘蔵していたのは対馬国阿比留氏や、筑紫国の安曇氏です。
アヒル文字とハングル(諺文)は古代インドに縁のある金官加羅の中臣に共通しているのではないか、というお話でした。

古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思って頂いて、ぜひ皆さんも調べてみて下さい。
最後までご覧頂きありがとうございました。


📖参考書籍📖
吾郷清彦著者「超古代神字・太占総覧」「日本超古代秘史資料」「九鬼文書」
鹿島曻著書「桓檀古記」
斎木雲州著書「出雲と蘇我王国」
富士林雅樹著書「出雲王朝とヤマト政権」
オーレン・スタイン 風間太郎訳「中央アジア踏査記」


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