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【三国史記】朝鮮最古の歴史書【事大主義の始まり】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※このnoteはYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回は[三国史記]についてお話しさせて頂きます、よろしくお願い致します。

現在、朝鮮史の研究は、高麗の統一王朝時代に編纂された[三国史記]と[三国遺事]の2冊を基本史料としています。

[三国史記]は朝鮮半島に現存する最古の歴史書と言われ、高麗17代目国王、仁宗(じんそう)の命を受けた金富軾(きんふしょく)が編纂したもので紀伝体で構成されています。

[三国史記]という名の通り3つの国の歴史を中心にまとめたもので三国というのは高句麗、新羅、百済を指します。
三国の中でも特に新羅に関する記述が多く、新羅を正統国家とする主張が強い傾向があります。

[三国史記]を引用した日本の書物には、江戸時代に成立したとされる[異称日本伝]や徳川光圀によって編纂が開始された[大日本史]という書物などがあります。


[三国史記]の編纂者である金富軾(きんふしょく)という人物は古文の復興を信奉していた儒学者であり、金富軾という名も宋代随一の優れた文学者であった蘇軾(蘇東坡)という人物から一字取って金富軾とするほど、狂信していたと云います。

[三国史記]というタイトルは欧陽脩(おうようしゅう)によって著された[五代史記]という書物にならってつけられたと言われ、この[五代史記]というのは儒学哲学の主張を強烈に打ち出した書物で現在は[新五代史]として広く識られています。

このように儒教的立場を強調した[三国史記]に対し、[三国遺事]は仏教的立場から歴史書を書き、国内における仏教の権威を高めようとした傾向があります。

【東明王と朱蒙】
ここでは便宜上紀元前37年〜668年を高句麗とし、918年〜1392年の間を高麗とします。

高句麗本紀によると高句麗は紀元前35年朱蒙(しゅもう)又は東明王(鄒牟・衆解)が東扶余に追われ沸流水(現在の渾江)に建国したことに始まります。

高句麗王の初代朱蒙は東明王であり、諱や別称として鄒牟(すうむ)や衆解(しゅうかい) 中牟王(ちゅうぼうおう)などがあります。

[三国史記]や[三国遺事]で朱蒙と東明王は同一人物とされていますが、[後漢書]扶余伝には索離国(さくりこく)王の侍女から生まれて、後に扶余の祖王となったのが東明王とあり、東明王は高句麗ではなく扶余の建国に携わっていたことが記されています。

【高句麗王騶と瑠璃王】
次に[漢書]王莽(おうもう)伝を見ると、高句麗王(侯)の騶(すう)という人物が登場します。

西暦12年、王莽は匈奴を攻撃するため高句麗に出兵を要求しました。
しかし高句麗王騶はこれを拒否し法を犯したため、王莽は騶を処刑し、高句麗の国名を下句麗と改名したとあります。

[漢書]と[三国史記]の年代を照合すると、この騶という人物は高句麗王2代目の瑠璃王(瑠璃明王)に相当しますが、[三国史記]に高句麗王が王莽の軍に処刑されたことは記されていません。
騶という名前は朱蒙の別名雛牟(すうむ)の略名ではないかと考えられ、意図的に年代を偽造した可能性があります。

【新羅から高麗】
[三国史記]の新羅本紀には、統一新羅から高麗へ覇権が移る際、両国に大きな衝突はなく常に友好関係を保ってきたように記されています。
特に903年に高麗軍が新羅の国都であった慶州(きょんじゅ)周辺を占領し、翌931年に高麗の太祖が慶州に入城したときも、特に戦闘は起こらず逆に新羅の敬順王は大歓迎をしたように記されています。

新羅と高麗に衝突がなかったのも怪しいですが、さらに新羅本紀を読み進めると、慶州の入城から4年後の935年、太祖は正式に新羅を併合し敬順王は廃位されました。
この時のことを次のように記しています。

《はじめ新羅が降伏したとき高麗の太祖は大いに喜んで手厚く礼遇し 使者に伝言させて“いま王が私に国を与えてくれるのは有難いことだ 願わくはわが家と婚姻を結んで とこしえに姻戚となりましょう”と言いました 王はこれに答えて“わが伯父の億兼は大耶郡(大良郡)の知事だが その娘(後の神成王太后金氏)が気立て容貌がよいので、この子がよい”と言って高麗の太祖はその娘を娶り その間に生まれたのが顕宗王の父である》
と記されています。

顕宗王は第8代高麗王で、祖母である神成王太后金氏は敬順王の従姉妹とされています。

そして新羅本紀の末尾には、敬順王が高麗に降伏したのは大きな功績であったと締めくくり、高麗の顕宗は新羅の外孫であって王位に登り、その後の王統を継いだ王たちはみなその子孫である、これが陰徳の報いでないと言えるだろうか、と総論付けています。
※ 陰徳=かくれた功績

顕宗の祖母(神成王太后金氏)は新羅王家の慶州金氏になっていますが、実際に高麗の歴代王の中に慶州金氏の血を引いた王は1人も存在しなかったとも指摘されており、[三国史記]の編纂者である金富軾が慶州金氏の門閥であったことが大きく影響しています。
つまり自身の家と王室を同族だと主張したいがためにこのようなストーリーを創作したのだと、日韓両国の歴史家によって指摘されています。

申采浩(シンチェホ)著書(矢部敦子訳)の「朝鮮上古史」を引用すると

《高麗時代に入ってからは、著作者の姓名のわからない[三韓古記][海東古記][三国史](海東三国史または旧三国史とも称する)等と、金富軾の[三国史記]、それに一然(いりょん)の[三国遺事]があったが、今に伝わるものは[三国史記]と[三国遺事]のみである。

その伝わったものと伝わらなかったもののできた原因を考えて見るに、金富軾・一然両者の著作が特に優れていたから、それだけが伝えられたのでは無いのである。

高麗初葉から、平壌を都邑(とゆう)と定め、進んで北方のいにしえの彊域(領域)を取り戻そうとする花郎の武士らの一派と、事大主義を国是として、鴨緑江(おうりょくこう)以内の地で貧しくとも安らかに暮らすべしと主張する儒教徒の一派があり、両派は対峙してはげしい論戦を展開していた。

その状態が続いて数百年目に仏教徒の妙清が花郎の思想に陰陽家の迷信をつけ加えて、平壌から兵を起こした。
そして北伐を実行しようとしたあげく、儒教徒金富軾に敗れた。

ここにおいて金富軾は彼の事大主義を基礎として[三国史記]を著したものであった。
※ 事大主義=勢力の強大なものに従属して自分の存立を維持する主義

ゆえに東と北両扶余をとり除いて朝鮮文化のより来たったところを塵土(じんど)の中にうずめ、渤海を不用のものとしてしりぞけ、三国以来の苦心と、努力の結晶である文明を値うちのないものとして投げ捨てたのである。

また彼は吏読文と漢訳との区別にうとかったため、彼の記事では1人が数人になり一箇所が数箇所になったものが多く、内史や外籍の取捨も明確でないため前後が矛盾し、事件の重複が多くてほとんど史的価値がないと言うべきなのである。

しかるに不幸にもその後、いくばくもなく高麗が蒙古に敗れ、フビライ(忽必烈)の威風が全国を震駭させて「皇京」「帝宮」などの名詞は撤廃され、海東天子の八関楽府が禁止され、この時以後は文献中に、もし独立自尊に関係のある文字があれば、すべて忌緯にふれるという情勢となった。
※ 海東=朝鮮を指す雅語
※ 八関=最も国家的な仏教行事で君臣が舞楽・百戯を行う

そこで数多い歴史著作中、唯一の事大主義の鼓吹者である金富軾の[三国史記]とそれにならった[三国遺事]のみが伝えられることとなったわけである。》引用終わり

とあります。

モンゴルの高麗侵攻は朝鮮半島の古文書に大きな影響を与え、事大主義を助長する結果となりました。

朝鮮半島においても史書は権力者によって軍事利用され、一般庶民の歴史とはかけ離れた歴史が創作されていたことがわかります。

古代史には膨大な学説がありますのでぜひ皆さんも調べてみて下さい、下記の参考書籍も読んでみて下さい。最後までご覧頂きありがとうございました。

📖この動画の参考書籍📖
金富軾/林英樹訳「三国史記」
申采浩著書/矢部敦子訳 「朝鮮上古史」
鹿島曻著書「倭と日本建国史」「日本ユダヤ王朝の謎」
鹿島曻/吾郷清彦/佐治芳彦著書「倭人大航海の謎」
本田済編訳「中国古典文学大系漢書・後漢書・三国志列伝選」
一然著 金思燁訳「三国遺事 完訳」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
ミスペディア編集部「面白いほどよくわかる朝鮮神話」

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