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東大神族による中国平定【神話編5章~20章】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※このnoteはYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回は[契丹古伝]神話編の5章から20章を見ていきます、宜しくお願い致します。


では早速、第5章の神系三族を読んでいきます。


或云神祖名圖己曳乃訶斗
號辰沄須瑳珂初降毉父之陰
聿肇有辰沄氏居於鞅綏之陽
載還有辰沄氏是爲二宗
別嗣神統顯于東冥者爲阿辰沄須氏
其後寧羲氏著名五原諸族之間


《或は云う 神祖名はトコヨミコト 號(ごう)はシウスサカ 初めイフの陰に降り ここにはじめてシウ氏有り アシの陽にもシウ氏有り これを二宗とする それとは別に神統を嗣いで東冥に出現したのがアシムス氏である その後ニギ氏が五原諸族の間に知られるようになった》
とあります。


【解説】
この章では東大神族(うしから)の神祖である「トコヨミコト」が「シウスサカ」と号したとありました。浜名氏の解説では「トコヨミコト」のトコヨは神域「常世」と解して根の堅洲国(かたすくに)であるとしています。

一方で鹿島氏は「トコヨミコト」を「国之常立之命」であるとしていて、その号の「シウスサカ」をサカ族の王と解し、この王が「スサノオノ命」としています。

スサノオには二義あり、このスサノオノ命は天照大神と争ったスサノオとは別人だと解説しています。

イフの陰とアシの陽は二宗とされ、これが東大神族(しうから)の主な2つの流れですが、鹿島氏はイフの場所を中国とカザフスタンを流れるイリ川だとし、この辺りにいたシウ氏が後の箕子朝鮮につながり、契丹はこの子孫になります。

二つ目のアシはアッシュルという古代都市周辺のことで、この辺りにいたシウ氏はアラム人であるアッシリア王家と比定しています。

もう一つの系統として東冥に出現したアシムス氏がいたとあります。

浜名氏はアシムス氏のアシは豊葦原のアシと同義であるとし、ムスは万物成生を表し、高皇産霊や神皇産霊の「産霊」と同義であると解説しています。

その一方で鹿島氏はアシムス氏はイシン王朝から分かれた殷の人々のことだとしています。

「ニギ氏」は[古事記]ではニニギノ命を
天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命
(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)
とあるので、浜名氏と鹿島氏、両者「ニギ氏」をニニギノ命としています。



次に第6章同音同義を読んでいきます。


因亦念之雖世降族斁
瓜瓞猶可繹綿緒而格其原壤
例如瑪玕靺鞨渤海同聲相承
珠申粛愼朱眞同音相襲
傳統自明也矣
乃爰討探舊史作次第如左


《因ってまた思うに 世が降り一族が衰えても つながっている蔓の緒(いとぐち)をたどる如く 祖に至ることをえる 例えば瑪珂・靺鞨・渤海は全てマカと読み 珠申・粛慎・朱真 は全てシウシンと読んで同音を継承した このように伝承は明らかであり ここに諸史伝をしらべて以下の如くまとめた》
とあります。


【解説】
瑪珂は馬韓のことで[好古日録]には《渤海は靺鞨の転訛なり》とあり、東大神族の言語では「ン」の一音は発音せず入声音の「ツ」は省略され、また促音になれば靺鞨はマカとなります。


シウシンは「辰沄翅報」(しうしふ)が本義で「東大君霊」このような漢字を当てています。

次の第7章~第10章までは、以前の[契丹古伝]の動画でお話しさせていただきましたので割愛します。



続いて第11章辰国神京を読んでいきます。


汗美須銍曰
神祖都于鞅綏韃
曰畢識耶神京也
敎漾緻遣翅雲兢阿解治焉


《汗美須銍(かみすち)曰く 神祖はアシタを都とした ヒシヤという 神京である ヤチクシウクアケに命じて治めさせた》
とあります。


【解説】
浜名氏の解説では、アシタは月支国のことで、そこに置かれたヒシヤとはヒグシャグで「平壌」のことだとしています。

ヤチクシ ウクアケのヤチは「八千」でクシが「国主」、ウクは継祀の意味がある「享嗣(うく)」であり、アケは「別王」のワケだと解釈し、八千国主享嗣別王(ヤチクシウクアケ)となると読解しています。

一方で鹿島氏は[契丹古伝]の第10章までで始祖伝説は終わり、第11章からは高句麗初期の歴史だと解釈されています。


まず第11章から第15章の汗美須銍と、第16章の西征頌疏の年代比定についてですが、浜田氏は第11章を紀元前400年とし、第12章を西暦80年〜107年、第14章を西暦40年、第15章を紀元前333年とそれぞれ比定しています。


しかし鹿島氏は第11章〜15章は全て同じ時代であるべきと考え、これを後漢時代に比定し、第16章の年代比定もこれに続くことになると解説しています。


両者の年代比定は、以上の部分を除くと、周末期より後漢に至る時代考証としてほぼ一致しています。


第11章の解説に戻ると、鹿島氏は汗美須銍に登場する神祖を高句麗王の太祖大王とし、西征頌疏と秘府録に登場する神祖を高句麗王新大王のことだと比定しています。

つまりこの章では太祖大王が月支国に都を置き、平壌と名付けて神京としたことが記されてあり、ヤチクシウクアケは太祖大王の弟又は子である次大王遂成のことだと解釈しています。



次に第12章辰国仲京を読んでいきます。


又敎耑礫濆兮阿解居戞牟駕
曰高虛耶是爲仲京


《またシラヒキアケに命じてカムカに移住させた カコヤといい これを仲京とした》
とあります。


【解説】
浜名氏はシラヒキアケは新羅に通じ、神話の白日別のことで、出雲の白日神や筑紫の白日別と同義であるとしています。

カムカは慶州の迎日湾のことで、カコヤは[三国遺事]にもある新羅の高墟村と解説しています。

また、カムカのカは「日」でムカは「向」向こうなので、カムカは日向とも解されるとあります。

一方で鹿島氏はシラヒキアケを高句麗の新大王と比定しています。



次に第13章の辰国海京を読んでいきます。


敎曷旦鸛濟扈枚居覺穀啄剌
曰節覇耶是爲海京


《ナンタカシコメに命じてカクタラに居住させた その宮をシオヤという ここを海京となされた》
とあります。


【解説】
浜名氏はナンタカシコメはアタカシコメと読み、[日本書紀]に登場する瓊瓊杵尊の妃アタカシツヒメ(吾田鹿葦津姫)のことだとしています。

アタカシツヒメは木花之開耶姫(このはなさくやひめ)や神吾田津姫(かむあたつひめ)と同一神とされています。

このヒメの父は大山津見神であり薩摩の豪族であることから、ヒメが居住したカクタラはおそらく鹿児の国浦で、鹿児島県だと推定しています。

一方鹿島氏はナンタカシコメは難升米(なんしこめ)のことで邪馬台国の卑弥呼が魏に使わした大夫であるとしています。シオヤは[後漢書]東夷伝に登場する「師升等」(しおや)とことで、カクタラは伽耶多羅と比定しています。


第14章と第15章は以前の動画で解説済みなので割愛します。



続けて第16章の神祖西征を読んでいきます。


西征頒疏曰神祖將征于西
乃敎云辰阿餼城于介盟奈敦
敎察賀阿餼城于晏泗奈敦
敎悠麒阿餼城于葛齊汭沫
於是濟怒洌央太
至于斐伊岣倭之岡而都
焉怒洌央太西海之名也
斐伊岣倭西陸塞日之處也


《西征頌疏に曰く 神祖は西征を志した すなわちウシアケに命じてアメナトに城を築かせ サカアケにアシナトの城を築かせ ユキアケにケシセマの城を築かせた そしてニレワタを渡りヒイクイの岡に到り そこを都とされた ニレワタとは西海の名称である ヒイクイは西陸の陽が沈む処である》
とあります。



【解説】
この章は神祖が月支国(アシタ)を発して黄海と渤海湾を経て、中国大陸の山東省に渡った経過を伝えたものだと云われています。

この西征頌疏という古文書には[後漢書]では空白になっている部分が記されていて、東大神族(しうから)による中国五原経略の記録と共に栄光の歴史だと解釈されています。

浜名氏の解説では、ウシアケのウシは[後漢書]や[晋書]にある海冥のことで、現在の遼寧省金州と旅順口区あたりだと比定しています。

サカアケのサカは遼河の支流、太子河のことで、ユキアケのユキは渝水(ゆすい)で現在の大凌河のこととしています。

一方鹿島氏の解説ではウシアケはウマシマヂノ命のことで、サカアケは「饒速日命」を襲名したと思われる味饒田命(うましにぎたのみこと)のことだと比定しています。

味饒田命は[先代旧事本紀]や[新撰姓氏録]では饒速日命の孫で宇摩志麻遅命の子とされています。

そしてユキアケは同じく宇摩志麻遅命の子、彦湯支命(ひこゆきのみこと)のことだと解説されています。


鹿島氏はこの章での神祖は高句麗の新大王のことで[ウエツフミ]のウガヤ第46代のことでもあると解釈していますので、このウガヤ第46代の時代に登場するマツカワヒコノ尊、アメノアカリタチ トヨスキヒコノ尊、サワケアシガキノ尊の三人の将軍がユキアケ、ウシアケ、サカアケに相当すると考察しています。

第17章は邪馬台国の動画で解説していますので割愛します。


次に第18章の五原諸族を読んでいきます。

初五原有先住之種 沒皮龍革牧於北原
魚目姑腹穴於西原 熊耳黃眉棲於中原
苗羅孟馮田於南原 菟首狼裾舟於海原
咸善服順但 南原 箔箘籍 兇狠不格
神祖伐放之海 疏曰 箔箘籍三邦之名
鳥人楛盟舒之族也後 歷海 踏灘波
據蔚都 猾巨鍾 遂入辰藩者其遺孽云


《初め五原に先住の種族がいた 没皮・龍革は北原で牧畜し 魚目・姑腹は西原に穴居し 能耳・黄眉は中原に住み、
苗族・丞馮は南原に農耕し 兎首 狼裾は海原で漁猟していた みなよく服順していたが南原の箔・菌・籍族は凶狼で帰服せず 神祖はこれを討って海に追放した 西征頌疏曰く 箔・菌・籍・は三族の名であり 鳥をトーテムとする楛盟舒族(くまそ族)である 後に海を経て灘波に侵入し 蔚都(うつ)に據(よ)り 巨鐘(くし)を猾(みだ)し遂に辰藩に入ったのはその遺孽(いげつ)と云う》
とあります。



【解説】
浜名氏の地名推考によると没皮は渤海郡の南皮県辺りに住む種族のことで没皮の没と渤海の渤は同声だとしています。

龍革は漢代から唐代にかけて中国に存在した敦煌郡の龍革県に住む種族で、彼らが北原で牧畜をしていたとあります。

魚目と姑腹は現在の四川省辺りにいた種族で、能耳・黄眉は現在の河南省にあった弘農郡辺りにいた種族であろう、とそれぞれ比定しています。

苗族は三苗族の祖民で丞馮と馮乗は蒼梧郡の孟陵(広西省)という地に居た農民のことです。

兎首は山東省にある兎頭山付近にいた太古の民族称で、狼裾は不明と記されています。

浜名氏と鹿島氏は共に箔・菌・籍の三族を新羅の三姓である朴・金・昔のことだとして、 鳥をトーテムとしていたこの部族を楛盟舒クマソと読んで熊襲族としています。

《灘波に侵入し 蔚都(うつ)に據(よ)り 巨鐘(くし)を猾(みだ)し》
とありましたが、この灘波は浮洙(うきなは)で琉球の那覇のことです。

蔚都は[延喜式神名帳]にある韓国宇豆峰神社の所在地で大隅国囎唹郡(曽於郡)に属しています。
当時、囎唹(そお)と玖摩(球磨)は熊襲の本拠地で、玖摩と囎唹でクマソとなった説も存在しています。

巨鐘は筑紫のことなので、宇豆に拠り筑紫を乱した、ということになります。

そして宇豆から《遂に辰藩に入った》とあるので、熊襲が新羅へ入ったと解釈されています。



次に第19章の神祖卒本(高天原)に帰るの章を読んでいきます。


神祖親臨八百八十載 登珍芳漾匾墜球淄蓋麰之峰 祝曰
辰沄龢提秩宸檀珂枳膠牟頡銍岬袁高密德溶晏髭戞賁莎戞
終詣日祖之處 永止非文紀旦賅墜阿旻潑例矣 後經十有六連
有璫兢尼赫琿 承嗣大統 祖風重興 河洛復盛焉
疏曰 宸檀珂枳猶言稻華神洲也 戞日也 餘義今不可攷


《神祖は八百八十載にして チホヤヘチクシコム之峰に登り 祝(ことほぎ)して曰く シウワダチシナカキ カムカチカエカミ トヨアシカヒサカ 終わり日祖のところに詣り 永くヒキタカチ アミハルに止まる 後十有六連(16連)を経て タケイチワケあり 大統を継承し 祖風かさねて興り 河洛また盛んとなった 疏(西征頌疏)に曰く シナカキはなおシナガキという 戞(か)は日なり 余儀は今はわからない》
とあります。

※ 載=年



【解説】
浜名氏の解説では、神祖が登ったというチホヤヘ チクシコムを北松浦半島の高法知岳に比定しています。(鹿島氏も同じ)

シウワダチ シナカキのシウはシウカラのシウで、三皇の霊称である「縉雲」(しう)と同声同音であることから、ワダチシナカキを黄帝、神農、伏犠のことだと説いています。


シウワダチは東大神族に属する地域の意味で、シナカキは西征頌疏に登場するシナガキのことで東大神族の国全体の美称です。

つぎに続くカムカチカエカミの意味は不明ですが、浜名氏はトホカミエヒタメの呪言に類するといいます。

鹿島氏の解説ではトヨアシカヒサカはトヨアシハラのことで、日祖のいるヒキタカチアミハルは卒本扶余のことだとし、これは西暦197年に山上王が都を卒本に移したことを表しており[三国史記]で《198年春2月に丸都城(輯安県通溝)を築いた…》とあるのに正しく対応するとしています。


神話編最後の第20章の東夷諸族は以前の動画で解説したため割愛します。



【まとめ】
以上で[契丹古伝]の神話編は終わり、第21章からは歴史編に入ります。

歴史編は主に辰殷大記と賁弥国氏洲鑑という歴史書を引用した内容となっていて、夏王朝、殷王朝に始まって箕子朝鮮、穢国、扶余、馬韓などの歴史が記されています。

今回は以上です、最後までご覧いただきありがとうございました。 


📖参考書籍📖
浜名寛祐著書「契丹古伝」
鹿島曻著書「倭人興亡史」
浜田秀雄著書「契丹秘伝と瀬戸内の邪馬台国」
佐治芳彦著書「謎の契丹古伝」
田中勝也著書「古代史原論」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
中村啓信著書「古事記 現代語訳付き」
国立図書館コレクション「続日本紀」


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