"上田麗奈についての私感"「この色、いいな」篇

平成が終わろうとしている。でも、そんなことはどうでもいいことではないだろうか? それよりももっと大変なことがある。そうだ。WebNewtypeで連載されていた「この色、いいな」が終わってしまったんだ!

ウェブコラムをほとんど読まないこんな私でさえも、さすがに毎回かかさず確認していた、あの「この色、いいな」が次回の更新でその歩みを止めるらしい。
「なんで!?」という感嘆は尽きないが、とにかく連載が終わる分だけ他の時間が増えるわけで、その時間が次なる活動の糧となるのだと私は信じきっている。だから(だから?)このロスを必死に乗り越えるために「この色、いいな」をじっくりと振り返ろうと思う。

ちなみに、ここまで読めばわかると思うが、私はただの上田麗奈のファンだ。古参でさえないが、ファンもといオタクであることに変わりはない。
最初にその名前を知ったのはデビューしてから数年後の作品「ネト充のススメ」のリリィだった。やたらと澄んだ声をしてるなと思った。が、その時はそこまで意識もしなかったように思える。
次が「こみっくがーるず」の怖浦すず。最初はぜんぜん気づかなかったが、たしかに同じ声だ。病んだ叫びが素晴らしい。が、ここでもスルーし、本渡楓との生放送を見て「絵うまっ!」とか馬鹿なことを言っていた。
では、いつから意識し始めたかというと、それは、やはり「harmony」の御冷ミァハだ。このキャラは一言でいえばテロリストのサイコレズで、その非人間的な生々しさにゾクゾクした。本編よりもその演技にグッときたのは「響けユーフォニアム」の種崎敦美が演じた鎧塚みぞれの泣き演技以来だったのでぶっ飛んだ。
ここで注意しておかなくてはならないのは、おそらく、たいていのひとが上田麗奈といえば「狂気」の役者だと思っているのではということだ。今風に言えば「やべえやつ」というの。
でも、上田麗奈は「狂気」の役者ではない、と私は考えている。むしろ「孤独」の役者なのではないか、と。
もちろん上田麗奈そのひとが孤独なのではなくて、「孤独」というものを核にして演技をしているということだ。これはこの前の「声優で夜あそび」でも言っていたことで詳しくは見てほしいが大略は以下の通り。外側に囚われることなくそのキャラクターの根っこにあるものだけを意識する、御冷ミァハを演じるうちにその演技を掴んだそうだが、彼女のなかのその中心が「孤独」だったのだ、ということらしい。
今季大ヒットの「SSSS GRIDMAN」の新条アカネに上田麗奈の演技がハマったのは、そうしたちょっと見には「狂気」にも似た「孤独」を持ったキャラクターだったからだと私は信じてやまない。
「ハナヤマタ」「サクラクエスト」「Relife」「Ingress」などを見れば分かるように、役柄が狭いわけでは決してなく、いろいろな側面を見せて(聞かせて)くれる。素晴らしい声優だ。
(一刻もはやく「私に天使が舞い降りた!」が見たい!!)

話が大幅に逸れた。本筋に戻ろう。

さきほど書いたように、今回は声のほうからではなく「この色、いいな」のほうから上田麗奈を考えていこう!!!

*ここから画像を引用するので注意してほしい。すべて引用元は「この色、いいな」からのものであり、著作権と肖像権はKADOKAWA、81プロデュース、カメラマン松本祐亮、ライター御杉重朗、そして上田麗奈に帰属している。私はこれらの権利を侵害する意図があるわけではない。

なにが言いたいかというと、これらの画像を保存するときは必ず元サイトからにして欲しいということだ。そしてなにか問題があるようなら画像を消してフォトコラムの番号のみにする。


それではまず第1回から。

記念すべき第一回目は千駄ヶ谷。壁を背にポーズもなくただ立つというこの写真にはどこか不思議な印象を覚えるかもしれない。なにより、まず最初にわかるのは遠近感のなさだ。壁にぴったりと張り付いているからだろう、ピントの合わせ方がどこか一部を鮮明に切り取られているわけではなく、すべてを均質に映している。

言いかえれば被写体と背景の区別がないのだ。
このカラフルなブラウスもまるで壁の模様と同化しているように見えないだろうか。例えばそれは次の写真でより明らかになる。

カメラが縦になったことによって靴と地面がしっかり見えて(脚が白いっ!)、ブラウスの背中のカラフルな模様を壁面へ押花みたいにおし当てて抱きしめるように両手を広げている上田麗奈。先ほどの均質な、ともすれば無造作ともいえるような画面構成から一転してシンメトリー(左右対称)という王道な構図。しかし、ここでは顔を隠しており、唯一の自己主張は対称性をかすかに崩しているポニーテールのみにとどまっている。耳がのぞいてるのとか美しすぎ……。
それにしてもなぜ背なかをカメラに向けているのだろうか?
「この色、いいな」のなかには何度も壁が映されている。上田麗奈と壁のツーショットを集めるだけでも相当な量になるだろう。まるで画板のようにその壁面に指を添えている。

第二回

第四回

第十一回

以下割愛。
とにかく壁に手をあてて壁を見ている。それはたいてい人通りの少ない路地裏の家屋に張り巡らされた何気ない石垣だ。ときには嬉しそうに、ときには恥ずかしそうに、ときには儚げに、その表面を眺めている。そしてこの壁の延長線上にはガラスがある。それは例えば次のような写真からもわかる。

第八回

並べてみると構図的にも同じということが諒解されるだろう。ここでは被写体がガラスの向こうとこちらで二重化しつつも、その半身が窓枠を横断することで対称性がゆるく、画面内になんとなく不穏な感じがする。その不穏さはここでは顕在化しないが以下のような写真にまざまざと現れてくる。

第六回

第十四回

回が進むごとに凝った構図になっていくのは別に不思議なことではないだろう。しかし、言いすぎを承知で言おう。明らかにふつうのネットコラムの写真ではない!
こうした多重露光的な写真をガラスを駆使して撮っている写真家にソール・ライターというひとがいる。一年くらい前に渋谷で展覧会がやっていたので知ったのだが、彼のモチーフには傘が頻繁に出てくる。そして、このころの「この色、いいな」にも傘の写真が出てくるのだ。


素人目にも、かなりいいショットだと思う。

私が思ったのは、上田麗奈は自分のことを写真のなかの構成要素の一つとして考えているのではないかということだ。

すこし話がそれるが「RefRein」の話をしておくとわかりやすいかもしれない。「RefRein」は上田麗奈のアーティストとしての初ミニアルバムであり、すべての楽曲の作詞を上田麗奈みずからが担当している(共作者に松村洋平)。
その第一曲「マニエールに夢を」には上田麗奈を理解(?)するうえでさまざまなヒントがあるように思える。
La manièreというのはフランス語で「表現方法」という意味だ。このLaというのは冠詞で、英語ではtheに当たるが、それだけではない。フランス語には名詞にそれぞれの性があって、その名詞が女性である場合にはLaをつける。つまりmanièreは女性名詞ということになる。それを考えると、ここでいうマニエールは上田麗奈のことを指しているのだということが見えてくる。
そもそもこのアルバムのタイトル名「RefRain」の大文字になったRは上田麗奈のファーストネームを暗示しているように思える。

重要なのは上田麗奈は自分のことを「マニエール=表現方法」だと見なしていることだ。そこに「夢を」と求めることによって、反復される曲構成のなかで、ただの表現の手段にすぎなかった「私」を変えていくのだ。
それは明確には第二曲の「ワタシ*ドリ」に見られる。このタイトルもまた「私」が作品の構成要素の一つだということを示唆するものであるが、とりわけBメロからサビの歌詞に現れている。

「つかめない雲みたいに晴れた空に浮かぶ/きっと形をまだ知らないの/ちょっと変わってるなんて思われたっていい/いつも記憶に留まっていたいから/ねえ、ここじゃないどこかに行ってみたいと思わない?/あなたが知っている私と/ああ、今日の空も晴れ」

「散らばった色のなかで選ぶ私の色/だけど形を持っていないの/ちょっと変わっていく私があなたの瞳/映ったときどんなだろう……/ねぇ、あなたが知ってる私/私が描いている『私』になっているかな」

一番と二番で反復されそしてまさしく変わっていく歌詞のなかで「私」はとても不定形なものとして描かれる。晴れた空に浮かぶ雲に喩えられる私は散らばった色から選ばれる。これは外の世界のいろんなものから自分がつくられていくことを指しているのだろう。
明確な形はもたず、常に揺らめきながら移ろいゆく『私』は「私」が描くものであって、「あなたの知っている私」とは異なっているのかもしれない。それがいいことなのか、わるいことなのかはわからない。ただ変わらずにはいられないし、どこかこことは違うところへと向かいたくて、あなたに呼びかける。「一緒に行ってみる」と。
第三曲「海の駅」では「わたしはわたしのまま/どこへだって行けるのに」と問いなおしている。これは「声優の私」と「アーティストの私」の問題に置き換えることができるかもしれない。つまり「声優の私」のままでもどんな役だって演じられるのに、どうして上田麗奈として歌う必要があるのか、そのような自答として。とにかくなにが言いたいかとえば「RefRain」も最高なんですよ!!! ということだ。

これはまた「RefRain」単体で書くときにきちんと整理しなくてはならないだろうけれど、「マニエールに夢を」の最後に「今日は、何を食べようか」という歌詞がくるのは、第一写真集「くちなし」と同じ構成をとっていると言えるだろう。これに関しては、有名な話だけど、上田麗奈が一人暮らしをしてから長いあいだ冷蔵庫を買っていなかったというエピソードが挙げられる。曰く、食べ物は強い力を持っていて、だから家のなかに入れたくなかったとのこと。むかし能登麻美子が一人暮らしをはじめてから長いあいだ洗濯機を買わずに手洗いをしていたという伝説に比肩する挿話だと思うが、上田麗奈の場合はさらにこの食のテーマをアーティスト活動に積極的に組み込んでいく。
上田麗奈は、「くちなし」でもまた、もう一人の新しい「私」を提示しているのだと、私は考える。それは「くちなし」というタイトルは声優である自分が声をつかわない仕事をしているということに自覚的だということを示しているというのもあるけれど、内容的にも「この色、いいな」とは別種のものであるのだ。

いろいろ書いたけれど、なにが言いたいかというと「マニエールに夢を」をもじって「この色、いいな」の上田麗奈のことをこう言いかえることができるのではないかということだ。

マチエールに夢を、と。

La matièreとはmanièreによく似ているフランス語で「素材」という意味だ。絵の具とか顔料とかのことを指す。ほかにも物質といった抽象的な語を意味することもあるが、とにかく「表現の手段」という意味ではマニエールに含まれるものでもあるだろう。みずからをある作品の構成要素のひとつとすること、これは「この色、いいな」と「くちなし」との最大の相違点であるように思える。「くちなし」ではむしろ被写体と背景に主従関係が導入されている。前景に上田麗奈が立ち、富山の光景はピントをぼかしている。だからカメラマンが同じであろうと、私は「この色、いいな」と「くちなし」は全く異なるコンセプトのもとで撮影されたのだと思うのだ。

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