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ありがとう。
一番最初に出てきた言葉はそれだった。

産んでくれてありがとう。
育ててくれてありがとう。

もっと早く言えば良かったのに
何も言えないままだったな。


1/26 PM10:55
母が亡くなった。

誕生日を数日後に控えた
享年70歳での臨終だった。

1/25 早朝
父から「お母さんの心臓が1回止まっちゃった」と
慌てた電話がかかってきて、その後の処置で再び
心臓は動き始めたけど今日か明日が山かもしれない

姉がすぐに新幹線で向かい、僕は午前で仕事を早退して実家の浜松に向かった。2日後に控えていたウェビナーは全日程を一度白紙に戻し、延期とさせていただいた。

母のいる病院のICUに入ると
いろんな管に繋がれた
およそ自分の知っている母とは程遠い

「母の容れもの」
のような姿がそこにあった。


母は強い人だった。
強くて明るいタイプの人だった。

いつも自分より他人を思いやり
何かあれば全力で励ましに行くような
とても心の大きな優しい人だった。

今から5年前くらいのことだ。
母が突然、ALSという難病に罹った。

筋萎縮性側索硬化症といって
簡単に言うと筋肉が痩せていく病気。

10万人に2人ほどが罹る原因不明の難病で
今のところ有効な治療法は確立されていない。

初めてこの病を聞いた時に思ったのは「何それ?」だ。ネットで調べてみても、元気な母からは全く想像できない。

理解するのに時間のかかるものだった。

癌だとか、その他の生活習慣病ならまだしも
今まで元気だった母が突然難病に侵されるなんて
医者の誤診なのではないかと初めは思っていた。

ちょうど同じ頃にコロナウイルスが流行り
実家に帰ることもままならなかった数年。

久しぶりに実家に帰った時には、母はもう
自分で歩くことが出来ず車椅子での生活。

我ながら馬鹿な息子だとは思いつつ
その時になってようやく事の重大さを
受け止めることになる。

しかし母はそんな姿になっても
自分より他人のことを心配していた。

病の進行の恐怖に対して不安を吐露することは
もちろんあったけれど、絶対に直してやると
一歩も退かずに闘っていた。

だから、そんな母が動かなくなったのを見て
まだほんのり温かい手を握りながら

「今じゃないよ、母ちゃん」
「こんな終わり方、悔しいじゃん」

そう心で呟やく。

ALSによる呼吸するための筋力の低下に
加えて、併発した喘息がいたずらをして
呼吸困難になって病院に運ばれたそうだ。

苦しかっただろう、怖かっただろう
寂しかっただろう、無念だろう

いつも人のために生きていた母が
こんな終わり方をしていいはずがない

やり場のない、怒りがこみ上げるとともに
自分は今まで一体何をしていたのだろうと
自分への怒りと後悔でぐちゃぐちゃになった。


時は少しさかのぼり
僕が小学校の高学年〜中学3年ほどの間
強かった母がうつ病になったことがある。

今でこそ鬱というものは社会で広く
認知されているものだけれど

当時はそこまで社会問題として
取り上げられてはいなかったと思う。

その後、数年かけて母は
自力でそこから抜け出すのだが

夕食の最中にいきなり泣き始めたり
目に見えて元気がなくなっていたのを
なんとなく覚えている。

なぜ「なんとなく」なのかと言うと
実はその頃の記憶が僕はほとんどない。

母が鬱だった時、姉は反抗期の真っ只中で
毎日のように母と喧嘩をしていたのと、

父は母が弱いから鬱になるんだと、
理解しようとしなかったことで
母といつも口論になっていた。

とにかく毎日誰かが喧嘩していて
当時小学生だった僕が考えていたのは
「誰も怒らせないようにしよう」ということ。

今となっては異常だったなと思うが
当時、僕は家の中でずっと敬語を使っていた。

その時の家庭環境がその後、意外と尾を引いて
大人になってからも僕は「自分の気持ち」を
自分で理解するのがすごく難しく、

「で、お前はどうしたいの?」

などと友達から聞かれると

「分からない」と答えていた。

そんな僕の当時の救いは「音楽」だった。
友達の家にスタジオがあり、学校帰りはずっと
そこでギターを弾いたりドラムを叩いたりしていた。

今でも当時のバンド仲間と
音楽には感謝している。

思春期に唯一
自分が自分でいられる場所だった。

そんな過去があり、大人になってからしばらく
当時のことを思い出しては家族を恨んだり
したものだったけれど、

次第に自分を取り戻していった時に
なぜあの時、母に寄り添ってあげなかったのかと
恨みから後悔の感情へと変わっていった。

まだ幼かったことは確かだ。

しかし被害者ぶっていただけで
自分も姉や父のことを責めることなど
到底できやしないと思った。同じだ。

だから母の難病を聞いた時に
今度はしっかり寄り添ってあげようと決めた。

しかし結果的に、病院のベッドで寝ている
母の手を握りながら、一体何をしてきたのだと
後悔ばかりしか出てこなかった。


25日の夜は姉が付き添いで
病院に泊まることになったので
ひとまず父と実家に帰ったけれど

疲れてはいるものの、いつ病院から
電話がくるかもしれないと思うと
中々眠ることはできなかった。

翌朝、病院に行くと、昨日よりも心拍が
落ちているとのこと。いよいよかもしれない。

できるだけ感情的にならないように
母の携帯から知り合いに電話をかけ
今の状況を伝えていくと

ICUには入れなくても病院まで会いに生きますと
たくさんの方が入り口まで見舞いにきてくれた。

母が生きてきた中で、どれだけの人と
深く関わってきたかを知り、胸が熱くなった。

するとその日の夕方からその方々の応援に
呼応するかのように心拍が戻りはじめ

医者から言われた山を越えるのではないかと
僅かながらの期待を胸に、今度は僕が付き添いで
病院に泊まることにした。

姉と父が19時頃に病院をあとにし、
21時の消灯まで母の隣にいたあと
家族控え室に戻った。

1日何も食べていなかったので
遅めの夕食をとり、ひと息ついた時
看護師が控え室のドアをノックした。

「お母さんの心拍が下がっています」
「ベッドのところに戻ってください」

すぐにICUに戻ると、それまで安定していた
心拍がみるみる下がっていく。

次第に心拍が0に近づくにつれ
「今じゃないよ、頑張れ」とは
もう思わなくなっていた。

最後に命の火を燃やし
最後まで病気と闘い切った姿を
僕や家族に見せてくれたのだと

なんだかそんな気がしたからだ。

苦しかったかもしれない。
呼吸困難になった時の母のことを思うと
今も胸が張り裂けそうだし涙が止まらない。

でも、母は最後までこの難病と闘い切った
心からそう思ったし、感じるものがあった。

「勝ったな!!勝ったよ!!母ちゃんは勝った!!」





心拍が0になり、心臓が止まった。

ありがとう。
産んでくれてありがとう。
育ててくれてありがとう。

生きてる時に言わなきゃいけなかったのに
一度も言えなくて後悔したけれど、

たぶん聞こえてるだろうな、と
そう思いながら母に話した。


28日に通夜を行い、29日に葬儀となった。
友人葬で地味に葬儀をしてほしいと生前
母が言っていたのでそのようにしたが、

通夜には用意していた席に座れず立ったまま
参列される方がいるくらい、葬儀屋も対応に
焦るほどの人が駆けつけてくれ

偉大な母だったなと、今までの母の
生き様を見せていただいたようだった。

別に町内会の責任者だったとか
地元の議員だったとか、先生だったとかではなく
一般の普通の主婦だ。すごい人だったなと思う。

後日談になるが、それ以外にも母の死後
大きな影響を与えたものがある。

父方の実家と我が家は
それまで長い間、冷たい空気が流れていた。

父は次男にあたるのだが、兄である長男家は
古くからの長男贔屓や因習深い土地柄ゆえの
兄弟間や家族間での確執があった。

だから小さい時から親戚とは疎遠で
あまり交流をしてこなかった。

誰が悪いとかではなく、それぞれの生まれや
環境や考え方で生まれた確執だったと思う。

その間の架け橋となって母が動いていたことを
巡りめぐって両家が知ることとなり、

通夜から葬儀までの2日間で、それまで
氷の壁となっていたところに母が開けた
小さな穴から一気に水が溢れ出すように
お互いの和解が進んでいった。

1人の女性として、1人の人間として、
自分の母のことを心から誇りに思う。

それまで自分の心に重く乗っていた後悔も
こんな後ろ向きな姿では母の生き様に対して
恥ずかしいと思うようになった。

生きている人間は前を向かなきゃいけない。

おばあちゃんとの思い出をあまり多く
残してあげられなかった自分の子供達に

おばあちゃんがどれだけ多くの人に
愛されていたか、どれだけの人に
勇気を与えていたか、

これからことあるごとに子供達に
聞かせてあげようと思う。


最後に、僕の発信を見てくださっている
フォロワーの方々に参考になればと思い
書かせていただきます。

母のALSの進行に伴い、父1人での介護の限界を前に、施設への入所を検討するあたりで僕が思っていたのは「とにかくお金」でした。

あとは、今のところ有効な治療法がなく
進行を遅らせるための処置しかできない
病気のため、新薬開発への望みを抱きつつ

やはりそこも大手を振って新薬治療を
行えるように「とにかくお金」だと
考えていました。

お金がないことで取れない手段がないよう
そこから死に物狂いで働きました。

副業のモチベーションも実はそこが
大きくあったことは間違いないです。

しかし、その忙しさゆえに
母からのLINEへの返信が滞ったり
電話に出られなかったり

今思えばお金以外の大切なことを
ひどく見失っていたように思います。

今となってはどうしようもないけれど
母の病気を聞き、そこから自分で
お金を稼ぐ術も身につけたころ

本業を辞めて実家に1人で
帰ろうかと考えていました。

子供は学校があるし、妻には迷惑を
かけたくなかったので1人で帰ろうかと。

幸い、パソコンとスマホがあれば
どこでも収益を上げることはできる
ようになっていたので。

ただ、その決断に踏み切る前に
母は亡くなってしまいました。

お金を得ることにより自分が取れる
選択肢が増えるのは良いこと。

しかしそこに決断力が伴わない限り
選択肢の広さは迷いを生むだけで

自分の人生で望む最適な手段を
選ぶことにはつながりません。

もちろん、人生の決断すべてを
正解することなどできないし、

重要な決断ほど間違えたり
迷ったりするものですが、

自分の人生の舵を切れるのは
自分しかいません。

僕自身、これからはより一層、自分が後悔しない生き方をしていくつもりです。そのためにお金を稼ぎ、いつでも、どんなことでも、自分で責任を持って自由自在に選択し、人生を泳いで行けるよう、もっと毎日を楽しみながら過ごしていきたいと思っています。


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