無題

外を犬が歩いている。すごく可愛らしくて、僕は2年前に亡くなった飼い犬のことを思い出した。彼のことを思うと、未だに僕はすごく悲しい気持ちになる。冬の中頃、冷えた空気の中を列になって歩く小学生たちは、通りすがる人に元気よく挨拶をしている。映画を観るのは苦手だ。頭を空っぽにして観られる映画が好きだ、と人には説明する。実際には逆で、頭を空っぽして観れる映画は、頭の中が取り留めのないことでいっぱいでも観れるから好きなんだ。横断歩道の脇には、子どもたちを見守る地元のおじいさんが交代で立つ。蛍光色のベストを着て、子どもたちの大きすぎる声に負けないくらい大きな声で挨拶を返す。でかい声やな。鳥の声はどれがどの鳥だか判別つかない。唯一、キジバトの声だけは知ってる。でも今朝は鳴いていない。あの声を聞くと、お寺のイメージが湧く。英語の構文を思い出している。僕は子どもの頃、お寺で硬筆を習っていた。お寺の住職が教えてくれるのだ。ほとんど慈善事業みたいな月謝だった。彼はすごく優しくて、僕はすごく好きだった。夏にはお寺でお泊まり会なんかも催してくれた。朝から昼には仏教の教えを説いてくれる。僕は別に全然分っちゃいなかったけど、なんとなく現在の僕が諦観めいた思想を持つルーツだったのかもしれないと、今になって思う。夜には本場のお墓で肝試しもさせてくれた。なんだか不謹慎な気もするし、そもそもウチのお墓もそこに建ってるのだから大して怖くないのだけど、すごくワクワクしたことを覚えてる。そんな住職の彼も昨年亡くなった。物心ついてから、身近な人の死を体験することがほとんどなかったので、僕は振る舞い方が分からなかった。葬儀にはすごくたくさんの人が来ていた。僕の住んでるところは田舎だったけど、辺りの家の人はみんな来てたんじゃないかな。たくさんの人が難しい顔をしたり、涙を流したりしていた。僕も悲しかった。僕のために泣いてくれる人はどのくらいいるだろうか。自分が死んだときのことを考える。きっと悲しんでくれる人はいると思う。泣いてくれる人もいると思う。僕ははたして一体何が不満なのか。雨音は続く。そういえば低気圧が人の体調だったり精神を悪くすると聞いたことがある。僕の今の憂鬱さもそういう一過性のものであればいいのに。本当に波だ。悪い時期が二週間くらい続いて、良い時期が一月半くらい続く。だから良い時期の方が多い。悪い時期のやり過ごし方も少しは身についてきた。でもたまにやり過ごせないような辛い瞬間がきて、でもやり過ごす以外に打つ手はないので、だからやり過ごす。無理矢理にやり過ごしている。接続されてる感覚が、かえって突き放されてる感覚に繋がる。すごくくだらないな、と思うことが多い。ただそういうのっていつもブーメランで、たぶん僕も他人からくだらないなって思われてる。浅くて、薄っぺらくて、そう思われてるし、それはまあ実際そうだし。余計なこと考えない方が良いと気付いてるけど、脳みそは意思と無関係に動かないですか。心臓や肺は、僕たちの意識の外で動いてるけど、脳みそというのもそう。だから悪い時期って寝てるとき以外ずっと辛くなってしまう。悪い時期ってなんだよ。時期とか周期のせいなのか、自分の性根のせいなのか、わからん。もっと人に愛されたらどうにかなるのかな、なんて思ったりするけれど、たぶんだけど、もう十分人に愛されてきていると思う。そうだとしたら、他人の善意とか好意を信じられんおれの方に問題があるのかも。病名がつくのと、どっちが楽だろうと思う。自分のことを俯瞰している自分が、お前って苦しんでるふりをして構ってもらいたがってるだけやんか、と知っている。こうやって辛いしんどい自分なんかって言っていたら、誰かが「そんなことないですよ!」って言ってくれるのを知っている。そう言ってくれる人がいるくらいには愛されているのを自覚している。だから苦しんでいるふり。世の中にはもっと辛い人がたくさんおんねん。これを打ち明けて一体どう思ってもらいたかった?他人を責めるより、自分を責める方が、体裁は良いので、自分を責めてます。他人を責めても許される世界なら、多分、僕はいくらでも他人を口汚く罵れたと思う。要するに何かを攻撃したいだけなんかも。誰が愛してくれんねん。少し溜飲が下がった。この文章を誰かに見せることを想像すると気持ちが少し楽になった。本当に見せてしまおうか。多分すごく楽になると思う。頼む。でもきっとすぐに元通りになる。結局、僕は、むしろ腫れ物のようになって、ますます輪の外になる。多分この輪の外、というのは妄想だ。被害妄想だ。でも輪の外にいる。みんな楽しそうにわいわいしてる中で、おれだけ外にいる、そういう被害妄想だ。コミュニティは物理的な枠を伴うとは限らないから、主観による根拠のない妄想だってある種の事実になり得る。詭弁を言うな。どうしたらいい?友達と会って話をするとき、僕は至って普通に振る舞っている。遊びに誘われたら遊びに行く。でも自分で誰かを誘うことができない。誰かを誘うって行為は自分の価値を相手にプレゼンするような感覚がある。誘ったあとで、責任がずっしりと、のしかかってきて、なんとか価値のあるものにしなくちゃと思う。気が休まらない。みんな楽しんでくれるだろうか?嫌なら嫌と言ってくれ。おれのこと、つまらない奴だと思わないでくれ。くだらない奴だと思わないでくれ。お願いだから。好かれたいより、嫌われたくない、という気持ちの方が強いかもしれない。自分の失態や粗相を異常に嫌っている。自分の発言の全部が不安だ。遊んだ帰りでさえ、自分の何気ない一言で、誰かが顔を一瞬しかめた、そういう瞬間があったときは気が重い。言わなきゃ良かった。やらなきゃ良かった。そんなことばかり反省してしまう。その結果、他人が喜びそうな言葉や心地よい言葉だけ選んで喋って表面的な良い人になってしまう。演じてる感覚はない。もっと機械的な反応。ジャンケンで相手に勝てるよう、反射的に後出しをし続けるような感覚。もし他人が僕のことを好いていたとして、それは僕が身につけた、そういう技術であって、僕自身ではない。なんやこれ、中学生の悩みか?中学生の頃の方がよっぽどシンプルだった。外が明るくなってきた。どうだろう、もう言いたいことはなくなったか。

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