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反論~天下人の遍歴~

天下人のことを検索していたら、思わず目にとまってしまった記事がありました。
あくまでも学問的な反論ですので、人格の否定にならないように注意したいと思います。

中学時代にこの天下人3名についてのまとめ授業の中で腑に落ちなかった点が一つあります。
蛇足ですがホトトギスを詩にして「殺してしまえ」「鳴かせてみせよう」「鳴くまで待とう」と個性を表していることは有名で教科書にもよく載っています。
私の気になったのは、キリストへの対応です。
ちなみに
信長→容認
秀吉→否定・拒絶
家康→否定・拒絶

と習いました。

ただ学校ではなぜキリスト教が禁止されたかは学びませんでした。
なぜなんだろうと当時思いましたが、あまり気に留めることはありませんでした。特に詳しく学ぶ必要もないと考えていたためです。

社会人となってひょんなことから日本の歴史についての学生時代との違う視点(東京裁判の史観)に触れることで一気に自分の視界が啓かれたような気がしました。

この記事に関しては、『神』の定義が不明瞭ですが私の知る信長の持ち合わていたであろう神としての威厳は天皇に帰依していることは重々承知していたことと思います。
武力に関しては右に出るものがいない中で馬ぞろえ(当時の武力演習)をしてまで退位を暗に要求していたとしている資料もありますが政治的な過程を経て、天皇を退位させようとするのは前代未聞かもしれませんが政治的なプロセスを踏んでの部分を考慮すると過程は大切にしている点はあったことが分かると考えます。

そのため、自らを神にという思考よりも当時の仏閣での武装による本来の仏教徒は違う流れに対して懸念を持っておりそれを制圧しようとしたがために延暦寺の焼き討ちなど宗教(神)をも恐れず切り込んだのだと考えます。
ただ、信長の場合キリスト教に踏み込む前に本能寺の変にて消息が分からなくなりました。

続く、秀吉の世においては朝鮮出兵はよく言われていますが、バテレン(宣教師)追放も行いました。
ちなみにこのバテレン追放は教科書では全く記載がありません。理由はわかりません。AIは知っておりましたが。。。
なぜ、このような強行策を実施したのか?
というのも、当時はキリスト教がある程度普及していた中で、特に九州では大友宗麟を中心にキリシタン大名が幅を利かせていました。これだけならまだしも神社仏閣を破壊して協会を建立したり、九州の土地をキリスト教に寄付したりと国防面を鑑みると、看過できない状況があったためです。この辺りは最近ですと、焚書の復刻版などが出ていますので参照されるといいと思います。


また、家康に関しても秀吉の流れを汲んでキリスト教への反対色は残した政治を行っていきました。そのため鎖国政策(厳密には貿易する国を絞っただけ)を打ち出していました。
ただ、幕末ともなると生麦事件など外国勢力との兼ね合いが出てきます。
そんな中で、外国船打払令や尊王攘夷運動へつながるなどどんどん出てきます。
幕末の外国との状況はまた別の記事にて記述したいと思います。

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