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雨がやんだ夕方。4月のはじめ。

その日の昼前、目が覚めると温く湿ったにおいが部屋の中いっぱいに浸入していた。見ずともわかるけど、カーテンの隙間から外を見るとアパートの前の平屋の屋根が濡れている。耳を澄ますと雨音も、湿ってシンと静まり返った部屋の中を満たしていた。嫌な夢の中での落下のように、体を成す支えを急激に失った。


布団をかぶり、雨の上がりを待った。


夕方近く、静けさの意味が変わってた。

鬱や風邪でつらい時の重みを布団の中で、、 つまり苦痛を覚えながら時間の経過を待っていたが、さきほど雨を確認したカーテンの隙間から光が差し込んでいた。今まだ湿ったままの部屋の中に。

外に出ろよ、という自分に対する強迫。しかし頭の中は鬱。誰かからの呼び出しがあったらな、と思うけど、iPhoneは何も知らせてはくれないでいた。

ひとまず、ベッドから降り椅子に腰を下ろしてみる。一部色の剥げかかったテーブルに置かれたカップの中には、徹夜した名残に紅茶が残っていた。色は澄んだまま。口に含んでみるとさほど味が変わっていないどころか、華やかさも鼻と口の中に広がった。そろそろ4月か。水出しの紅茶を用意しておく季節だろうか。静かに、、 頭のどこかで、、 思い出がはじける。今の仕事を強いられる前、あのカフェがこの街にあった頃、僕はそこで働き、いつも飲み物やカフェ的(?)なフードと向き合っていた。懐かしい、そんな感情もないわけじゃないけど、まだあれから一年半くらいなのに、遠くまで来たな、という気持ちになる。そしてまだ生きている。


カメラをバッグに入れ外に出てみた。大気は急速に冷え始めていた。

陽はだいぶ傾いている。僕の脆弱な心を、早く!早く!と揺さぶる角度。撮影は唯一の息抜きだろうか。それとも強迫だろうか。とにかく結論として、僕はカメラを持ち出歩き、その日その日の何かがどこかへと向かわせる。今日は傾いた陽だ。そして僕はこの日、陽が色を赤く変える前に、歩いて30分程度のところの河川敷に行き着いた。雲が上空の強い風になびき、そこに陽が落ちかけ、僕はその光と闇と、発散される色にしばらく見とれた。風が肌から熱を奪い続ける。

少し絞り値を上げてカメラを雲に隠れかけた陽に向け、シャッターを切った。


誰かに要求されたわけでもなく、地形と光と闇はそこに存在し、そこで人々は暮らし、働き、笑い、、 泣いている。運命も知らず、企てる者達の悪意も知らず。

僕も運命を知らない。自分のも他人のも、身近で大切な誰かの運命も。しかし最近、人々の笑いや涙を気にするようになった。そこに何らかの糸口が隠されているような気がして。


戦う。誰かの運命を守るためか壊すためかもわからない。僕が生きようとしていることが何なのか、それもわからない。もしかしたらいつか、もしかしたら今日にでも絶望し、命を絶とうとするかもしれない。しかし、少なくとも今は生きることを選択している。戦うことを選択している。

部屋に戻れば、気付かされた現実が待っている。それは画像であったり、テキストであったり、ネットから拾った欠片であったりするし、生まれて今まで触れ合ってきた人々の温もりでもある。



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