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愛子


『小学』

 「あいつ、昨日、またいたんだぜ」
 「誰だよ」
 「ほら、三組のさあ。みんな噂しているヤツだよ」
 「ああ、知ってる、知ってる。またいたって、砂場?」
 「そうだよ。俺、見ちゃったよ、昨日も」
 「おまえ、わざわざ見に行っているの? 毎日?」
 「ああ。行ってるよ。おまえも行けよ」
 「嫌だよ。気味悪くねえ?」
 「そりゃあな。でもよ、病みつきなんだよ。いつも迷うんだけどよ、行っちゃうんだよねえ。一人でぼそぼそ言いながら何か砂で作ったりよ、突然興奮して立ち上がって、腕を振り回したり誰かと戦っているみたいに構えたりよ、飽きねえよ」
 「おい、止めろよ。気味悪いだろ。夜、眠れねえよ」
 「それでよ。今日、休み時間に三組に行って見てきたらよ、あいつ、誰とも話してなくてさ、ただ、ぼーっと席に座っているんだぜ」
 「だから、止めろって。おまえともうしゃべんねえぞ」
 「悪い。止めるよ」
 「帰るぞ」
 僕はじっとしていた。会話をしていた二人が出て行ってからも、他に誰かいないか、じっと耳を澄まし、立ちつくしていた。どうやら誰もいないようだ、と思う。しかし鍵を外そうとするとまた、突然に不安が胸を突き、戸の上の何もない空間を凝視した。誰かが顔を出してニヤつく、そんな脅迫が僕の体を強張らせる。「変態がクソしてるよー」誰もそんなことを言ってもいないのに、そんな台詞が頭に響く。
 僕は洋式の便座に腰を下ろし、時間が経つのを待つことにした。ただ、ぼんやり。猫背気味の背中に、重く灰色がかった時間が蓄積されていく。
 その個室の中で見るものといえば、クリーム色のペンキで塗られた目の前の戸と囲いしかない。僕を取り巻く平面をよく見ると、何やら多くの落書きがされている。僕の顔の前には女子の名前と男子の名前がハートで囲まれていた。どちらも僕の知らない名前だ。はじめ僕は、高学年の人が何年も前に書いたものではないかと考えたのだが、そういえば、学期末ごとの大掃除には消しゴムで落書きを消していくことになっていたことを思い出し、僕と同じ学年であるのかも知れないと思い直した。この二人の名前も鉛筆で書いてあるように見える。
 ふと、誰かに呼びかけられたように感じ、横を向くと、「無視、決定」と書かれていた。女子の字のような綺麗な字だ。「無視」なんて、まだ習っていない漢字だ。高学年の人がこの階にやってきてトイレを使うのだろうか?それとも頭の良い人が書いたのだろうか?
 至る所にいろいろなことが書いてあった。僕は暇つぶしに片っ端から読んでいったが、だんだんと個室に灰色が濃く立ちこめ、それは時間の経過であり日の陰りであった。僕は落書きを読むことを止め、無意識に先ほど脅迫を感じた戸の上の空間を見ると、どうして気づかなかったのだろう? そこは夕日が射し込み黄色く染まっていた。
 僕は家に帰ることにした。
 教室の机の上に置いておいたランドセルの周囲には、僕の教科書やノートが散乱し、一つ一つ開いて見ていくといくつかの落書きが増えているようであったが、気にせずにランドセルに詰め込み、街を覆う夕焼けの下、家路を急いだ。僕は落書きはもう仕方のないことだと考えるようにしていた。もうこれは、つづくのだ。僕自身の力に関係なく、つづくのだ。いつの日か、こんな日々があったなあ、と懐かしむに違いない。どうして教科書を大切にしないの?、と母は言うけれど、僕が落書きをしているわけじゃないんだ、と言うこともない。いつの日か、解決しているはずなのだ。
 今日は公園の砂場には行かないことにした。公園の砂場は小さな頃から一人で遊んでいたところだが、今日は行く必要がなかった。今日はトイレの個室でいろいろな落書きをたくさん見たから、行く必要がなくなっていた。
 教科書やノートの落書きは、僕の目の前でも書いていく人達がいるが、この頃、時々、僕はそんな自分の姿を教室の隅から見ることができるようになっていた。どうしてかは知らないが、できるのだ。家で母から叱責されているときも、自分の姿を見ることができる。その末に母が溜息をついているときは、僕は夜空を見渡すこともできる。夜空はとても透き通っているのに、濃い青色で、たくさんの弓矢のようなものが飛び交っているように見える。いつだったか、母にそのことを言ったときがあったが、母は、それは流れ星よ、と言っていた。僕はそのときから、母に本当の自分を話さないように決めている。だって、流れ星くらい知っているもの。僕が見る弓矢のようなものはそれとは明らかに違っていて、それを見ると、悲しかったり楽しかったりする。ほとんどは悲しいのだが。
 家につづく一本道に入った頃、既に辺りは暗くなっていた。道端の草の間からは、名前の知らない虫の音が聞こえてきていた。アスファルト舗装のその道は、一定の間隔で、街灯に照らされた明るい部分とその間の闇の部分とが交互につづいている。僕は明るい部分で足を早め、闇の部分でゆっくりと歩いた。この一本道を毎日一人で帰ってくるのだが、どうしても期待してしまうことがある。もしかしたら家に入ったとき、まだ夜空を飛び交う弓矢を見たことのなかった、まだ母から理不尽な叱責をされていなかった、まだ教科書やノートに落書きをされていなかった、まだ、ただただ夢中になって砂場で遊んでいられた頃に戻っているのではないかと。
 それは何年遡ればいいのだろう? みんなが落書きをはじめる前だ。それはいつだろう? 確か、あのときからだ。授業で描いた僕の絵を、先生が、おまえはムンクか、と言ったときからだ。あの絵は学校の帰りに誰かがちぎってドブに捨てた。
 僕は学校の図書館に行って、「世界の名画」という本でムンクの絵を探した。そして探し出した絵は、僕にいつも話し掛けてくる人達とよく似た顔が描かれていた。


『高校』


 地上から伸びたケヤキの枝はこの三階の窓からも覗くことができた。状況からすれば、覗くと言うより覗かれているという表現の方が正しいのかも知れない。春の若葉のような輝きはもう、そのケヤキの枝に規則正しく連なる葉並からは伺えないが、その葉並を真上から照らしている真夏の太陽のおかげで、春にはない瑞々しさをもたらしていた。他の植物には疲れの様子が浮かんでいたが、ケヤキだけは黒々とした陰を傘のように広げていた。でもその陰りは、どこか遠い世界のように感じるのだ。窓辺に立ち外を伺うと、教室が空調で充分に冷えているからなのかも知れないが、ガラス一枚隔てただけの世界が遙か遠く、僕には永遠に行き着けないお伽の国のように見えてしまうのだ。
 自分の席から後ろを振り返ると、三、四人が一斉に睨み返してきた。僕は特に動揺することもなく前を向き直したが、やはり声が気になって仕方がなかった。さっきからぶつぶつと誰かが囁いている。
 外を見ると、この頃いつもそうであるように湿度の高そうな夏が広がっている。僕はそんな夏で気を紛らわせたかったのだが、一向に止まない囁きに少し苛立ちはじめていた。周囲を見ると誰も気に留めていない様子で、その声が僕にしか聞こえないものだと分かる。
 このテスト期間、絶え間無く囁きは聞こえてくる。小学生の頃は少なかったのだが、中学、高校と上がってくるに従ってその発生源は増えてきていた。そして今も聞こえてきている。
 だが、その声が誰の声なのかが判別できない。僕の席は一番前で後ろには四十もの可能性があった。陰湿な声だ。何かを恨み、もっと大きなものを壊そうと企む声だ。僕はクラスメートの一人一人の顔を思い浮かべるが、頭に浮かぶ顔にはそれと特定できる顔がない。仮面を剥がすことができず、歯痒い。
 そんな個人の声など無視してしまえば良いのだが、諦めて後悔はしたくない。そうなのだ、あの日のような苦渋はもう嫌だ。
 夏はいつでも暑かったのだが、あの日も暑かった。


『中学』


 「そろそろ、彰君も絞り込んだ方が良いと思うのですよ。清家さん」
 教師の声に母は晴れた笑顔を浮かべつつ、「この子には困っているのですよ」と応えていた。
 「彰君の成績ですと、やはり大学の進学も考えた高校選びが必要でして、ええ、やはり、私立と公立で一校ずつ考えられますが、もうこれは清家さんは知っていますよね。私立の方は相当の名門でして、お金の方も大変なのですよ。しかしですよ、私は担任として、余裕がありますならこちらの方を勧めたいのですよ。彰君でしたら、名門の校風にも充分にはまりますし、しかし、清家さんが公立に行かせたいとおっしゃるなら、それでもよろしいと、私は考えますね」
 「さあ、本人はどう考えているのですかね?」
 「そうだよ。彰君。どうなんだ?」
 僕はそう言われても、はじめ自分に向けられた言葉だとは気づかなかった。囁きが聞こえていたのだ。そのときの囁きは耳を澄ますまでもなく、三者懇談という静寂を持つはずの周囲の空間を埋め尽くすほどだったのだから。
 「僕はまだ何も考えていません」間を置いて応えた。
 「おいおい、そりゃあないだろ。今になって。おまえな、今はまだ夏休みだって考えは捨てた方が良いぞ。受験までなんてあっという間だし、推薦入学となると、もう実際に受験体制に入らなくちゃいけないんだぞ。このことは前から言っているだろ。おまえは本当に稀にみる優秀さだけどな、油断だけはダメだ。清家さん、彰君は夏休みに入っても、今まで通りに勉強していますよね。夏期の講習には参加して貰いたかったけど、おまえは決して学業を疎かにしないヤツだと考えて、おまえ自身に任せたんだぞ」
 「勉強ねえ。本当にしているのかしら。毎日、自分の部屋には籠もっていますけどね」
 「今が肝心なんですよ。お母さん」
 「ねえ、どうなの。彰」
 「耳を塞いでいる」僕は実に無警戒に言葉を発してしまっていた。
 「はっ?」二人はほぼ同時に僕の顔を覗き込んでいた。
 「んーん。僕、集中するときにはそうするんだよ。耳を塞いでじっとしていると、集中できるんだよ」
 「おお、そうなのか。もっと早くから聞いておけば良かったな。他の連中のアドバイスになるな。秘訣があったんだな」クラス担任は顔を一層近づけてきた。
 勉強なんかしていない。僕はそんな風に言いたかった。勉強なんて教科書を読めばできるじゃないか。参考書や問題集を買わせるなんて、金の無駄遣いでしかない。答えの冊子を見て、答案の欄に写して、それで終わりだ。
 それより声がどこから聞こえてくるのかが気になっていた。教室の外からではあるが、場所を特定できない。隣の教室からかも知れないし、職員室で起こられている生徒かも知れないし、教室のすぐ外かも知れない。誰なんだろう? 誰を殺そうとしているんだろう?
 僕はその声に集中したかったのだが、目の前の二人の声や視線が気になって集中できないでいた。それに正午過ぎの蒸し暑さもリズムを壊したがる間延びした蝉の音も、僕の集中を削いでいた。
 「私立は授業料が大変なのよ。でも、彰が行きたいって言うなら、お父さんもお母さんもお仕事頑張るのよ。彰の希望を叶えることがお母さん達の夢なんだから」
 「おい、彰、ここまで言ってくれているんだぞ。真剣に考えろよ」
 うるさい、僕はそう叫びたかったが、止めた。今、誰かが殺そうとしているんだぞ、誰かが思いがけずに死のうとしているんだぞ。僕の将来が何だって言うんだ。どの学校だって、教科書さえあれば勉強できるじゃないか。
 僕の頬を汗が流れていくのが感じられた。暑いってだけではないだろう。囁きを聞こうと集中すると、尋常じゃなく疲れるのだ。
 「公立で良いよ」僕は言った。集中することに疲れ果ててしまったし、担任の先生と母との虚しいやりとりにも耐えられなくなったからだ。
 僕は教壇に並べられた椅子から腰を上げ、傍らの床に無造作に置いておいた学生鞄を手に取り、帰り支度をした。母はやはり笑顔のままだ。
 「次は誰だっけ?」担任の先生はそう言いながら腰を上げ、教室の前のドアに寄り取っ手に手をかけた。が、どっちが早かっただろうか? ドアは勢い良く開き、黒い学生服が飛び込んできていた。手元にはなんと安っぽい輝きか、ステンレスの刃物が一瞬見えた。そしてその軌道は僕に向かっている。
 ほんの短い間、僕は安らぎを覚えていた。周囲からはただ真面目とか、神経質だとか、そんな空虚な言葉しかかけられなかった時間。しかしその陰で、多くの悲しい声に怯えつづけた時間。何か自分が行動するとき、例えばものを食うときの惨めなクチャクチャという音。そんな重みから開放されるときがとうとう来たのだ。
 刃物を持つ男は、いつも僕の次の成績を残してきた、痩せていて頬骨の出た男。そうか、こいつは僕を恨んでいたのか。まあ、相手が誰であろうと、僕はそれを喜んで受け入れよう。
 僕はその男に対して正面を向き、待ち構えた。もちろん、抵抗しようとは考えなかった。しかし・・・

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