言葉にならない
明るい明るい人が亡くなった。
訃報って…辛さしかないなぁ。
息子さんの誕生日を、グアムでペコちゃんと一緒に祝って、些細なことで涙が出るほど笑って、帰ってすぐの出来事だったらしい。
辛い気持ちが、一気に襲って来たんだろうか。
最後に家族に会った時も、もう限界ギリギリで、我慢しながら、ただたただ心配をかけないように笑っていたんだろうか。
もう瀬戸際だったんだろうか。
衝動的な行動なら、もうちょっと違うタイミングだったんじゃないかと思う。
「もう無理…、でも息子の誕生日だけは祝ってから…」みたいな、それくらいの気持ちだったんだろうか。
全て憶測で、本当のところは本人にしか分からない。
本人にも分析しきれない、突然の衝動だったのかもしれない。
自分の人生を終わらせるタイミングを、もう決めてしまっていたとしたら。
そりゃあ誰にも相談はしないだろうなぁ。反対されるに決まってるし。
闇を抱えている感じもしていたけど、
それでもやっぱり、どうしても、明るいイメージが強かった。
陰というより、陽の人だった。
三浦春馬さんの時もショックだったけど、
彼は、あまりプライベートは発信しないタイプの方だった。
一方で、りゅうちぇるさんは、素の顔も発信しているタイプの人だった。
もちろん、本当に気持ちが落ちている時は動画撮影はしなかっただろうし、苦しさは隠していただろうから、ポジティブな部分だけだろうけど、嘘の付けない人という印象だった。ぺぇさんとか、ペコちゃんと笑い転げる動画は、今見ても本当に幸せそうに見える。心を開ける相手と、心底楽しそうに過ごしている空気。ちゃんと幸せな瞬間もたくさんあった人生だったと思える。
だから、勝手に友達みたいに思っていた。
私たち視聴者に、すごく親近感を湧かせるタイプの魅力を持った人だった。
だから余計に、彼の最後の選択は衝撃だった。
身近な人は、救えなかったという感情を強く持つのだろうか…。
喪失感も辛いけれど、罪悪感の辛さはまた特別だろう。
だけど、言葉を敢えて選ばずに言うと、
救えなかったというのは、傲慢なのかもしれない。
救うほどの力は、私たちにはない。
だから、それが自分であろうと他人であろうと、身近な人を責めるのはお門違い。
どれだけ身近にいても、どれだけ優しい存在でも、誰も誰のことも救えないのかもしれない。冷たいようだけど、それはきっと事実。
大切な存在が、最後踏みとどまらせる力を持つのは、当の本人にある程度余裕がある時だけなのだ、きっと。
本当に追い詰められたら、どれだけ守りたい大切な存在が周りにいても、抑止力にはならない、そんな気がする。それが我が子でも、恋人でも、ペットでも、親でも親友でも。それは愛情の量ではないのだ、と。
だから、親が自ら死を選んだとしても、「私をそこまで愛してなかったんだ…」ってことじゃない。そういうことじゃない。
どれだけ愛されていても、その愛じゃ救えない。そういう時があるのだ。
そこまでの力を、きっとどれだけ頑張っても、私たちは持てないのだ。
だから、身近な人が自らこの世を去ってしまって、辛くてたまらなくても、罪悪感を抱くというのは、また違うのではないか…とも思う。私だって、たとえ自ら死を選ぶ時が来たとしても、周りの人に自分を責めてほしくはない。イジメに遭っていたならまだしも、周りへの当てつけに死ぬ、というような人は本当に少ないと思う。むしろ他人への影響が考えられなくなるほど余裕がなくなっているのは当人で、そこまで考えられないほど視野が狭くなっている状態なのだと思われる。
辛いって言える場所があること、逃げてもいいって思えること、それは勿論大事なのだけれど、
誰かに一時的に救われても、
また、ふと絶望してしまう、
人ってそういう所があると思うから。
キリがないとも言える。
一時的に気持ちが楽になることは、
彼にだって、いくらでもあったはず。
楽しい瞬間も、美味しい瞬間も、感動することも、心許せる友達も。だけど、それとこれとは違うんだろう。
別次元で苦しんでいたら、それは届かない。
こういうセンセーショナルなニュースを利用して、アクセスを稼いだり、お金儲けしようとすることを、死体蹴りって言われる。
そして死体蹴りを批判してまたアクセスを稼ごうとする人もいる。キリがない。
亡くなった人の家族や知人に心無いインタビューをするマスコミの非礼さには、私も憤りを感じるけれど。
人を批判したって、仕方がない。自分がそういうことをしないように気を付けるしか。
救えなかった代わりに、私たちにできるのは人を批判することではない。
生き残っている自分に優しくすること、周りの人たちに優しくすること。残された時間を大切に過ごすこと。
生きるのがこんなに大変な世界で今日も生きている、それだけで自分たちを褒めてあげること。
それしか、できない。
これだけ明るくて、楽しそうで、芸能人として成功して、影響力を得た人が絶望していたという事実から、私たちが学ぶべきこと。彼が世の中に訴えたかったこと、それはそういうことなんじゃないだろうか。
めちゃくちゃ明るい人も闇を抱えていて、キャラはともかく根が真面目な人こそ、人知れず苦しんでいる可能性がある、という想像を働かせること。
いなくなった人は戻ってこないのだから、一緒にいるうちに大切に後悔のない時間を過ごす、ということだろうか。
人はいつ死ぬか分からない。
絶望もそうだし、
事故や災害だってある。
別れは、予告されないことの方が多い。
予感した時には、もう手遅れな場合が多い。
離婚してから、カミングアウトしてから、彼の周りは手のひらを返したように批判が多くなったように思う。
それも辛かったのかもしれない、
もっともっと可愛くなりたいのに、理想の可愛いさに近づけなくて辛かったのかもしれない、
理想の父親像を自分とは別の所に持ってしまったのかもしれない、
ホルモンバランスの乱れもあったのかもしれない、
誰にも知られていない悩みがあったのかもしれない。
複雑な要因が絡み合って、単純な解決は望めない、そういった諸々が彼の背中を押したのかもしれない。考えることに疲れたのかもしれない。
頭が良すぎる人は、絶望しやすいとも言われる。
影響力が強すぎるがゆえに、その力の波に飲み込まれてしまったのかもしれない。
ネット上の極端な反応はともかく、
愛されている人だった、と思う。
彼の周りの人は皆、彼のことを好きだったと思う。彼の不器用な部分も愛していたと思う。それは彼にも伝わっていたと思う。直接会ったことの無い私にも、届いていたほどだから。失敗したって憎めない、迷惑かけられても、つい許しちゃう、そんな愛嬌に溢れていた。
圧倒的なエネルギー、元気、素直な感情、楽しそうな雰囲気。自分に嘘を付かずに生きようとした姿勢。影響を受けた人は山ほどいると思う。
だけど本人は絶望して、この世界を去って行ってしまった。
享年27歳。
勿体ないなぁ、と思う。魅力って、当の本人を救う力は持たないものなんだなぁ…。いくら他人を惹きつけても、自分の心は苦しいままだったのかなぁ…。
あの人が死んでしまったの。
罪悪感は持たなくても、
だけど、どうしようもないほど辛いよ…。
それはもちろん、そう。
自分を責めなくていい。
だけど、悲しむのはもちろん、悲しんで良い。
喪失感。
もう会えないという事実。
「イイネするだけじゃなくて、もっと応援の言葉を届ければよかった…」というコメントが動画についていた。
ホント、そうだよね。私だって、こんなショックを受ける権利なんてないほど、何も形にして応援してはいなかった。
彼からすると、批判の声ばかり目立って、誰も味方がいないような気になったかもしれない。応援する気持ちが少しでもあるのなら、いなくなってほしくないのなら、私たちはもっと、明確に言葉にするべきなのかもしれない。行動に移すべきなのかも。それは芸能人だけじゃなくて、身近な人に対しても。
商品やサービスに対してだって、そう。クレームや批判の方が本人に届けられやすい、可視化されやすい皮肉。
私たちは感謝している時ほど、喜んでいる時ほど、それを素直にストレートに相手に伝える努力を怠るべきではないのかも。
それが、残された私たちにできることの一つではあるのかも。その力が集まって、素敵な人を会社を、サービスを救うってことに繋がるのかもしれない。そういう積み重ねが、大きなエネルギーになって、ギリギリの誰かの力になることは、きっとある。
生きるのは辛い。
皆、ギリギリで生きている。
ネガティブな影響を受けそうな気持ちも、分からなくはない。
だけど、
だからこそ、
私たちはもっと自分を甘やかすべき。
絶望するほど、自分に厳しくせずにいられるように。
有名な人の死の知らせを受けて、ハッとして。
あー、ヤバい。私もギリギリだった…。これは休むべきだ!って、堂々と休める人が増えますように。
死ぬほど辛くなる前に、会社を休もう。辞めよう。離婚しよう。別れよう。責任を誰かに一旦、預けよう。
今まで見ないようにしていた、そういう思い切った選択を、もう少し気楽に自分に許せるといいな。
それを、自分にも他人にも許せますように。
大丈夫、
逃げるっていうのは悪いことじゃないんだ、って。
自分しか自分のことは守れないんだから。
それもまた、彼を救えなかった私たちにできること。結局は、私たちは自分のことしか救えない。
ありがとうございます、また書きます。思い出したら、また読みに来てください✨