オメガバース

春の短い夕暮れがすべてを穏やかなオレンジに染めていた。蜂蜜のようなその日最後の陽光に照らされさざめいている木々の梢と、空の色。窓枠に四角く切り取られた世界から流れてくる、まだ少し冷たい季節の風に穏やかに髪を揺らされて凪砂は手元に注がれていた視線を上げる。その拍子に視界に入った髪にまばたきして、なぞるようにして耳にかけた。指先はまだ、膝の上の半分ほど編まれたちいさな靴下を撫でている。一目一目、確かめるようにゆっくり触れて、ふっと息を吐く。それからベッドサイドに目をやれば同じくらいちいさな帽子や玩具が何人分なのだろうかというほど置かれている。どれもリボンをかけられたり可愛らしい包装紙にくるまれたりしながら、各々もうすぐやってるであろう自分の役立つときを誇らしげに待っている。凪砂はそれらと手元を見比べて。少し困ったように微笑んだ。目を閉じて下腹部にそっと手を当てれば、わずかに膨らみを兆し始めているのが分かる。そうしているとき、どうしようもなく広がっていく心を伝えるための上手な言葉をひとつも知らなかったから見よう見まねで子守唄を口ずさんだ。ずっとずっと昔。他に何も持っていなくて、自分がなんにも持っていないことすら知らなかった小さな凪砂がしたように拙い真似っこの歌ではあったけれど。そして子守唄を歌いながら幸せのかたちを優しく撫でる。
 
「……ふふ、歌が好きなんだ」

○○〇

茨の知らない歌の優しいメロディーが穏やかな夕暮れのなかに響いていた。両親のことは覚えていない。それを特段悲しいと思ったこともない。ただ、思う。母親というのは皆、無条件に産まれてくる命に有らん限りの祝福を贈るのだろうか。
「遅くなってすみません」
「……茨?」
呼びかければ、茨の来たことに気付いて窓の方から視線を此方に向けた凪砂が、口許をほころばせた。
「おかえり、今日はどんな一日だった?」
スーツのネクタイを緩めて、茨が眉を下げる。ちょいちょいと手招きされるまま、茨はベッドサイドまで近付く。
「……もうちょっとこっちに来て」
「こうですか?」
「……座って?」
椅子を持ってこようとして離れかけた茨の袖をつかんで、ベッドの端に座ればいいと促される。
「今日も一日よく頑張ったね……いいこいいこ」
「いいこって歳でもないんですがね」
「ふふ……私の茨はいつまだっていいこで可愛い」
何故か凪砂が得意気に胸を張る。昔はこうされるのを随分嫌がったもので抵抗を諦めたのは茨が未成年を卒業したあたりだっただろうか。今、思い出してみればやはりどこかしら子供だった。
「飽きもせず何年も何年も同じことを……変なところが頑固なんですから」
「なんなら学生の頃から一個ずつ茨が可愛いと思う点を列挙していっても……」
「あー!もうそんなことはどうだっていいんです!体が冷えるといけませんから窓を閉めますよ!」
「……そんなところも、可愛い」
凪砂の執拗なからかいから逃げるため。あるいは、もしかすると照れ隠しで。茨は大袈裟な動作で立ち上がってぴしゃん!と窓を閉めた。まだ堪えきれないようにくすくす笑っている凪砂をちょっと睨んでやる。腰を上げようとベッドから床に足を下ろした凪砂の体に、茨が慌てて手を添える。
「あ、ほら!お手伝いしますから、ね?」
「…そんなに慌てなくたって…立ち上がるくらいはひとりで大丈夫だよ?」
「ダメですよ!ただでさえあなたの体は──」
茨はその先を紡ぐのを躊躇う。まるで、それが口に出したら本当になってしまう呪いだとでもいいたげに。
「……そんな顔しないで?かつての私には望むべくもなかった──こんな幸せ」
年を重ねても変わらない、揺籃するかのような微笑みを浮かべて、凪砂はそっと腕を伸ばす。
「……」
「……大丈夫、この子はきっと──」

○○○

 病室を出るともう外はすっかり夜といって差し支えなかった。車までの短い道とはいえ、茨は思わずコートの前をかきあわせる。一つだけ大きく息をすると、冷たい空気が鼻の奥でつんとした。喉のコンディションのことを考えれば誉められたことではないのだろうが切れるような冷気で肺を満たすと頭がすっきりする。思いきり吐き出した呼気が、ひととき真っ白く虚空にわだかまってからゆるやかに散ってゆく。数秒立ち止まってそれを眺め、測ったように同じ歩幅で歩き出す。赤い煉瓦で舗装された可愛らしいデザインの道は両脇をきちんと刈られた芝生の庭に挟まれ、点在するベンチや東屋が夕闇のなかにひっそり佇んでいる。
「……」
たとえばそれは、ビスクドールを硝子ケースから取り出して幼児のままごと人形として与えるような行為だった。少なくとも茨にとっては。もとより乱凪砂の身体はそういった、いわゆる『実用』向きには造られていなかった。どれだけ優しく触れても、彼の未成熟な身体は茨を受け入れて情事を最後まで進めるだけで精一杯で。滲む瞳で耐えることはあっても快楽で潤むことはなく。互いに楽しむ余裕など、ろくになかった。それでも凪砂は定期的に抱いて欲しいとねだり、遂には子を成したがった。それがオメガとしての本能なのか、己の得られなかった家族への憧れなのか。どちらにせよ茨には分からない。けれど発情期を迎える度
、痛いばかりだろうに必死で自分を求めてくる彼を邪険にできない程度には七種茨というアルファは番であるオメガのことを愛していた。

一度だけ。それで授からなかったら諦めるという条件で結局は茨が折れ、幸か不幸か(こんな表現を我が子にするのもどうかと思うが)凪砂の胎には生命が宿ったのだった。本来ならば守り慈しんでくれるはずの『親』によって好きに弄られた肉体。そこに宿した生命を育む力があるのかどうかは医師にも分からなかった。事情が特殊だけにと実感も早々に病室を手配したのも彼にとって良かったのかどうか定かではない。せめて傍にいて普通の家族のように振る舞うべきだったのかもしれない……等々、今日までのほんの短い期間ですら呆れるほど後悔が積み上がっていた。
「(授かった以上は、もちろん無事に生まれてきてほしいんですがね…)」
車のキーを指でくるくると回し、鍵穴に差し込む。遠隔操作できるタイプのキーは防犯のために使わない。考えてもどうしようも無いと理解しつつも、つらつらと思ってしまう。一番怖いのは、果たして凪砂を喪ったとして、遺された子を自分が愛せるのかどうかだった。
「(……どうしようもない…ではなく考えたくないだけですね)」
運転席のドアが閉じてなお、その車が発車する気配は一向になかった。