君影草の夢
「……裏切らないでね。逃げたりしたら私、何をしちゃうか分からない」
闇の中で炯々と燐光を放つ朱が、茨を捉えていた。限界まで見開いたそれは、ゆらゆらと水面を作っては茨の頬へ零す。まるで夕焼けの海をさかさまにしたみたいだった。
「……」
単に他人の体液が肌に触れる不快感で茨は眉を顰める。とはいえ………
「それで、閣下はどうなさるおつもりで?……自分を殺したいですか?」
床に引きずり倒されてなお、茨がいつものように謝りもしないのは先の展開を知っているからだ。
「………うるさい」
「当たり前なんですが、一応確認しておきますね。殺しちゃったら自分は閣下の前から永久にいなくなりますがその辺大丈夫ですか?」
いい加減繰り返しになるこの問答にも慣れた。
「…うるさい。うるさい…黙れ…私に意見するな…黙って…黙ってお願い……そんなに私を虐めて楽しい?」
「どう見ても虐められてるのはこっちなんですがね〜…」
「…うるさい…もう…黙れって言ってるのに…っ!」
白い指が首筋に伸びてくる。
「…っ…ぐ…」
「………嫌い。嫌い嫌い、大っ嫌い」
呪詛に濡れた声が酸欠でふわつく意識の中で木霊する。相も変わらず暖かくて塩辛い液体がぼたぼた降ってくるのがひたすらに不愉快だった。
「……っ!」
ふっ、と力が消える。
「…っは!…げほ…っ!う…ぇ…え」
「…ぁ…う」
咳き込みながら見上げれば、怯えきった表情の男がそこにいる。
「…茨が悪いんだよ…私を、茨のくせに私をいじめようとするから……私から逃げようとするから…だから私もちゃんと怒らなきゃって…」
猿真似、という言葉が浮かんで本当に殺されかねないので口を噤んだ。癇癪を起こしている本人ですら訳が分からなくなっているのだろう。支離滅裂な独り言を零しながら、茨の上にのしかかってそれ以上動かない。
「……私は…茨が好きなのに…それだけのはずなのに……なんで…こんなことしたくないのに…っ」
しまいには泣きじゃくり始めるのもお決まりのパターンだ。溜息をつきたいのを我慢して、なるべく優しく作った声で適当な慰めをかけてやる。
「……すみませんでした、自分が悪かったです。……寂しかったんですよね?」
「……っ、ひっく…」
背中に手を伸ばして、ゆっくり治まっていく嗚咽を手のひらで感じる。
「……わたっ……わたしのことを…ないがしろにして…っ…いいとおもってるの…っ」
「ごめんなさい、もう泣かないでください」
「……い、茨なんか…っ…こまっちゃえばいい…っ…」
「もう十分困りましたよ。参りました。降参です」
よくもまあ、特技だけれど。思ってもいないことが出てくるものだ。体を起こして背中に手を回し、ぽんぽん、とあやすように緩急をつけて叩く。
「……ほかの…こにばっかり…かまって…っ!わたしだって、ちかくにいたのに…っ」
「なるほど、すみませんでした。仕事なもので」
いまひとつピンと来なかった。茨には凪砂がいつの話をほじくり返して癇癪を起こしているのか大抵分からない。ついでにいえば、さして興味もない。原因がいつのことだろうが、どうせ起こす癇癪なら同じことだ。
「(ああ、でもさ。その理由なら、少しだけ良い気分だよ)」
だって覚えたての悋気を振りかざしてくる恋人なんて可愛くて仕方がないではないか!