僕は喋るのが好きなので、

僕は喋るのが好きです。特に、くだらないことを真剣に考えることが好きです。男子校出身なのですが、高校時代はよく知りもしない恋愛の話や恋愛対象との会話の仕方、恋愛の仕方などを妄想を交えながら友人と話したものです。(もちろんpubilicには公開できないような話もしていました)


さて、人口に膾炙した表現ですが、コロナは僕らの話す機会を奪って行きました。正確に言えば、自由に何の気なく気軽に会話を始める機会を奪って行きました。

友人に授業終わりに授業の質問をしたり、クラスメートと話しながら移動教室をしたり、異性の友人と暗黙の了解で一緒に出ることになっていた授業をさぼって別の友人達とカラオケに行ったり、同じ路線の友人と電車の帰り道で何の気なしに喋ったり、僕の人生は喋ることで満たされていました。


ところが今は。。。話すにしたって「ズームしよ」。この言葉が必要なんですよね。コロナで世界が変わったって、僕らの心は以前の世界のまま、「『ズームしよ』って何かあったのかな?」、こう思う、あるいはこう思われてしまうのではないかと思うんです。

正直重い。おそらく、好きな人と授業終わりに学食に誘うよりも重苦しい。仮にズームの相手がただの友人だって。


ましてや、恋愛対象と話そうとした日には大変です。「ご飯いこ?」『え?このご時世でわざわざ?』・「ズームしよ?」『え、ズームするってもしかしてなんかあるの??』こんな会話のシミュレーションが頭の中で繰り広げられる。僕たちの自由な意思表示、自由な意思の伝達方法はどこに行ったのだろう。


もちろん、こんなことを思わない人もいるだろうし、お前考えすぎやろって思う人もいるでしょう。

ただ、僕は、こう考える。相手が僕と喋ってて嫌じゃないかな?たのしいかな?また話してくれるかな?こう考えます。僕は喋るのが好きなので、


大学生の日常が奪われたらしいです。僕はあまりそうは思いません。大学生を「学生」と捉えるのであれば。

朝起きてすぐそこにバーチャル空間上の教室がある。親に買ってもらった、あるいは自分で買った教科書が本棚にある。大学のサービスで図書館の蔵書のpdfがある程度読める。チャット欄で先生に気軽に質問できる。

学生としての日常は奪われていないと思います。


ただ、人としての日常が奪われている。「ヒト」というのは恒常的に二足歩行する哺乳類を指すと適応行動論で習いましたが、そうではなく「人間」としての日常です。

僕らは集団生活をして社会を構成しています。今僕らは集団生活をしていません。個人生活です。僕は実家暮らしですので家族とは過ごしていますが、そういうことではありません。

ダンバー数の知見から、僕ら現生人類は150人程度の人と集団生活可能らしいのですが、その能力を持て余しています。僕は5人家族で1人もう家を出ていますので4人で集団生活をしています。


これは単にお気持ちに過ぎないですので、そろそろ疲れてきたから書くのをやめますが、僕は気兼ねなく誰かと話せる日常を取り戻したいです。僕は喋るのが好きなので、。


こいつ面白いこと言ってるなって思ったら僕に連絡してください。

かわいそうだなって思ったら僕に連絡してください。

ぜひご飯でも行きましょう。

僕は喋るのが好きなので、


おそらく、こんなことを言うことすら憚られる世の中と僕の心の中ですが、

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?