ばあちゃんちの山奥の聖域

小さい頃、いつも親父の実家の帰ると一人で足を踏み入れる場所があった。途中までは道があるが、その道も荒れ果て、朽ちた木が倒れていたりお生い茂るツタが足に絡んできたり、それでもズンズン進んでいくがある一定のところまで行くと急に進むのが怖くなる場所がある。なんというか、寒気がして、突如熊が出てくるんじゃ無いか、とかイノシシに襲われるんじゃ無いかとか。そうやって挑戦するたびに道を引き返していくのだが、そのポイントを僕は一度だけ超えた事がある。

ばあちゃんだ。僕は一度だけばあちゃんとその道の奥まで入って行った事がある。確かあるキノコを探しに行った時のことだったか。そこには、今は毒キノコとして知られている…キノコが生えていて..それを採取しに行ったと記憶している。
いつもの山道を登っていくとやはりあの地点が現れる。しかし今日は怖いと感じなかった。それはばあちゃんがその山の事をよく知っていたからなのか。もし聞けるとしたらばあちゃんに裏山の話を聞いてみたい。とにかく僕らはどんどん山を進んでいき、歩いていける限界地点まできた。そこには折れた木の幹が地面に横たわっていてタヌキのウンチがポツンと一つ上に乗っていた。

ばあちゃんちの山奥だからといって元々の原生林であるということでは無い。
ただ、その時感じた怖さの正体は人が踏み入れなくなって自然がある程度自己再生していき、野生の動物が人を気にせず生活を送るようになった、まさに「ナワバリ」の境界線なのでは無いかと感じた。それ以降きやすく足を踏み入れると襲うよ、っていうオーラを動物がはなっているのでは無いかと思う。そういう意味でばあちゃんが一緒にいると安心して歩を進められたのはばあちゃんがそこに長年住み、山の中でのルールを理解していたからでは無いだろうか?

例えば山を下るときは足を横にして重心を後ろにする事で滑りづらくなるとか、簡単な知識は僕でもわかるが、そこに長年住む事で、知識以上のニオイが体に染み付いていくのでは無いだろうか?

そういう意味で僕は自分の夢を持ったときまずするべきことは聖域に体を浸し、ニオイを染み込ませていく事なのでは無いかと思う。そうやって領域の中に身を置く事で知識だけでなく危険察知能力や自分の中のテリトリーができていくのでは無いだろうか。

ちなみに、夢を追いかける際、夢から遠ざかり散ってしまうということはよくある話だと思うが、散ってしまう一つの要因は「俯瞰」なんじゃ無いかと思う。
もちろん俯瞰的に物事を考えられるのは大事なことだが、その道中で違う職業をしながらそれについて妄想することは、何も体験していないことと同じで、それはつまり努力しているようで全く努力していないことと同じだからだ。大事なのはその夢の領域で体験をかさねていきいい、悪いの選別を重ねていくことにあるんじゃ無いかと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?