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思考する葦

noteをどんな風なコンテンツとして扱うかは人それぞれ自由で、人それぞれの関心や考えが溢れていることが私にはとっても魅力的なことだなぁと思います。
今更ながら、私がnoteを利用する理由なんですが…人間社会の中で自分がキャッチした漠然とした感情や情報たちに潰されない様に、言語化して不安を解消するツールとして主に使用しています。
私は自分に自信がなくてつい過去や未来に考え耽り、"今ここ"を生きれず不安を抱いてしまうざんねん癖がある為、困った時は客観的に捉えて一人の空間を作り出すことが必要だと思ってスマホのメモや紙媒体など書き込むことをしています。

最近はnoteで"ほぼ特級呪物"をなりふり構わず連投してしまっている自覚があるのですが…。
一旦それについては目を瞑りまして。事情は違えど、今を楽しみたい方が私だけではなくこの世界に何人かおられ、励みや元気を分けてもらえたという感覚を味わったことがありました。その感覚に時々元気を頂きつつ、書いております。本当にありがとうございます。 

今日の嬉しかったことは、遠くに離れた友人に手紙を書いて郵便局へ送り届けたことと、1度行って雰囲気が面白くて好きだと感じたカレー屋に近くに住んでいる友人と行けたことです。

近況報告はLINEなどでもできるし速くて気軽なのですが、手で書いて送るとなると何となく想いも一緒に相手の元へ送ることができる気がして、相手の近況なども考えながら書いていくうちに私まで優しい気分にさせていただけるのでとてもありがたいです。
カレー屋の話については…以前会社の先輩方とも訪れたお店なんですが…驚いたことにインド人の女性の方が以前とは違って店長のヒンドゥー語通訳なしに一人でオーダーを承っておられていて、勇気をいただけました。
言葉も違う土地に働きに来て、そこの現地の人とコミュニケーションを取らなければならないという状況…ストレスもあったと思う。
けれど、毎日継続していたらいずれは何とかなる。よどみなく日本語で受け答えするその女性のように先の見えない継続をやり遂げるは前向きでしなやかな姿勢は小さな日常の大きな目標になりました。

唐突ですが私は、生きている中で深刻だなぁ、と感じている悩みが1つあります。
それは他人との距離感の取り方です。

誰にでも触れてほしくないことの一つや二つは絶対にあるし、例え力になってくれる存在がいたとしても、自分のことは自分の力で、自分のペースでやりたいものだと私は何となく思っています(自分だけで何かを成し遂げて初めて自分の存在意義や生きがいは見出されるんじゃないか…というイメージです)。

また、人の行動の仕方や会話の波長から、相手の人となりだけでなく思想や理念あたりまで深く読み取ることが何となくできてしまい、生い立ちに何かあった方の事情話を実際に耳で聞く前に、自分がある程度察してしまうようなことが多いように思います。
その相手のペースがどこか噛み合わなくなって調子が悪くなっていたり、違和感に気が付いた時に(私が何とかしなきゃ相手が苦しいままだ)と感情が先走ってしまい、相手の心の傷に無遠慮に干渉して距離感を見誤ってしまうのが、私の良くない所です。それで疎まれたり執着されることを極端に恐れてもいます。

自分が相手のクッション役を買う必要はなくて、その人にとって最も信頼のおける仲間や存在にその役を譲ってあげることが最適解なのだと今のような冷静な時には分かるのですが…相手の心の歯車が噛み合わなくなった状況に身を置かれた時、自分と他人の一線を切り離せなくなって過干渉してしまいます。
それで逆に仕事が手に付かなくなったりする程注意力が割かれてミスが増えて、自尊心が低くなるという悪循環を起こしているので…「気に留めない、流す」を目標に努力します。

このような感じで、明日を迎えてしまう前に忙しい中では整わなかった呼吸を整えたり感情を分析したりして自分をメンテナンスするのにnoteは使われます(笑)

2024.4.25 

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