IT原始人とAI


 はじめまして。東京都・清瀬市から来た介護福祉士の者です。

 IT原始人である私が、このたび、生意気にもAIdemyさんの「AIアプリ開発コース」を受講させて頂きました。
 受講の理由としましては、「今後は介護・福祉業界も積極的にAIを取り入れて、業務を最適化もしくは効率化していく必要がある」という社会的な使命感を帯びている訳では決してございません。

「興味があったから。」

 ただそれだけのことでございます。実を言いますと、「介護・福祉業界にAIを取り入れて、業務を最適化もしくは効率化していく必要がある」という聞こえの良いセリフは、「なんで介護福祉士ごときがAIを勉強しようとしたの?」という半ば揶揄に近い質問を受けた際に、模範的な解答として、もはやバカの一つ覚えのごとく利活用させて頂いております。

「お前がAIの勉強なんて、IT原始人の飛び級だわ。」

 心ない友人からの、そのような悪罵をかわしつつ、私はAIの勉強を始めていきました。
 AIを学ぶにあたり、まずは「Python」というプログラミング言語の基本を覚える必要がありました。
 エクセルの関数ですらからっきしの私ですから、ハッキリ言ってAIアプリ開発コースの受講は自分自身への無茶ぶりであり、プログラミング言語の基礎の習得はタフな作業になると容易に推測ができます。しかしながら、通過儀礼を経ずに目的地へあっさりと到達することはできない、という世の不文律は、絶対的に私の前に立ちはだかりました。とはいえ、あっさり到達できても、それはそれで歯ごたえがなく、面白くないではないか、と状況を肯定的に捉えるオルタナティブな思考法もまた必要だと思い、自分のペースで地道に基礎学習を積んでいきました。
 ともすれば退屈になってしまう基礎学習を継続する私なりのコツは、飽きないように工夫する、ということでした。あえて口にするほどでもないオーソドックスな方法なのでお恥ずかしい限りなのですが。
 何事においても共通することですが、平板な日常は、脳に対して「慣れ」という沈静化した感情を生み出しやすいものです。そこで、脳に対して「慣れさせない」ということを意識させました。つまり、次々に新しい項目へと進んでいく、というおおよそ「学び」とは言えないような学習方法を実践しました。
 この方法におけるリスクは、学習成果を上げづらい、という部分です。しかし、私がどうして、「学習の成果」よりもとにかく「脳を飽きさせない(マンネリ化させない)」という手法を選んだかと言えば、「どんな方法であれ、継続していれば、学習の成果が目に見えなくても、知識は必ず積み重なっていく」と思っていたからです。
 基礎を固めるという学習工程に重きを置かなかったことで、正直なところ、基礎学習が終わった時には、「Pythonというプログラミング言語のイメージが、なんとなく、頭の中に残った」というくらいの感覚でいました。
 IT原始人のくせに基礎を疎かにした私に、天は罰を与えたのか、続く「機械学習」という学習工程において、私は雷を落とされました。

「機械学習・・・、何を言っているのか・・・、さっぱり分からない・・・。」

 なるほど。学習工程のこの時点まで挫折を回避できていたのは、適切な学習方法を実践していたからではなく、ただ単に運に恵まれていただけだったのか。そう悟りを開かざるをえなかった私は、今後の見通しに対する暗澹たる絶望感に立ちすくみ、同時に、大いなる焦りの底に突き落とされました。

「と・・・、とにかく、継続だ!」

 そう自棄になった私は、機械学習の基礎を初めから学習し直しました。すると、「機械学習に対して、理解ができないという感覚はほとんど変わらないが、以前よりは少しだけイメージを掴めたような感覚が残った」という実感を得ました。第一回目の機械学習における学習工程において、理解が出来ないなりに最後まで終わらせたことが功を奏したのかもしれません。復習してみると、情報がつながりを持ち、そこからさらに情報がつながっていったような感じがありました。
 そんな訳で、もう一度、復習をしました。この三度の反復学習において、ようやく機械学習が「なんとなく」という感覚で私の中に降りてきました。そうです。全くお恥ずかしい限りですが、私に関して言えば、三度の反復学習で、「なんとなく」です。
 ここまで読んでくださった方はすでにお気づきでしょうが、三度の反復学習で「なんとなく」という感覚しか持てない私の脳の機能は、おそらく他者よりも劣っているのでしょう。しかし、私は、その厳然たる事実に対して、落ち込むことはありませんでした。

「とにかく、なんとなくでも、分かってきたよう気になって、・・・良かった!」

 そのような精神的な達成感と安堵感が、不完全な脳における機能的な劣等感を駆逐したのです。平常の私であれば、劣等感や失望感がまず前面に出てくることが多いので、それは不思議な感覚でした。
「脳を飽きさせないこと」
「つまり小さくても良いから脳に刺激を与え続けること」
「つまりどんな方法でも良いから継続をすること」
 この三つの武器を得た私は、学習を継続させていくことができました。しかし、この実感は、「思い返せばそうだった」という類のものであり、渦中にいた時は切迫感と必死さによってどうにか切り抜けてきたような、例えるなら、いつも何とか対岸に渡ることができた、というようなギリギリの感覚でいたように思います。
 そんな私が「AIアプリ開発コース」を学んだ感想は、これまた極めてシンプルなものでした。

「面白かった。」

 信じられませんが、これが全てでございます。
 勉強期間中、久しく味わったことのない幸せを感じていました。面白いと実感できることに毎日携わることができる喜びを感じておりました。
 このような実感を得たのは、果たして何十年ぶりだろうか・・・。幸福感なんて、すっかり忘れていた感情だ・・・。幸せを感じていた頃なんて、私にあったのか・・・?

 その時、私の過去が、時間の流れを切り裂いて、唐突に目の前に現れました。

 幼い頃。
 東京都の練馬区。
 私の生まれた一画は、まだ畑や空き地が残る場所でした(今でもかなり残っていますが)。そこは練馬の外れでした。隣の区である杉並区の幼稚園に通っていた私は、幼少期の思い出は練馬と杉並のはざまにて形成されていった記憶があります(そのためにどっちつかずの優柔不断な人格が形成されました)。そして、練馬区の公立の小学校と中学校に、ある意味でのエスカレーターに乗せられて、進学しました。
 その頃、人生は楽しく、幸せな日々を送らせて頂くことができました。どんな人生でもそうであるように、不幸や不運は当然ついて回りますが、それらを踏まえても楽しいと感じることのできる環境の中で育つことができました。
 ところが、人生で最も楽しくなるはずの高校時代、私は暗黒の世界に突き落とされました。幸せすぎたことの反動が、唐突に訪れた衝撃のせいで、より重苦しく感じられました。私にとって「失われた時代」の始まりが高校一年生の4月から始まったのです。
 どれくらい長い間、音の消えた洞窟の中を歩いてきたのか分かりません。
 日陰の者として生きることに興味があったわけではなく、またその生き方が正しいと思っていたわけでもありませんでした。それでも自分自身の生き方を変革できなかったのは、自我の奥に眠る自己処罰の原理が働いたのかもしれません。「今まで幸せだったのだから、報いを受けて当然だ。」というようなものが無意識の部分であったのかもしれません。私は、「かつて幸せだったけど、もう幸せではない人間の、あるべき姿」を全うしてしまったのです。

 その頃は、「人生とはそもそも、退屈でつまらないものだ。」とか「人生とは、死ぬまでの間の、苦痛と絶望の耐久レースである。」などなど、自己の境遇を肯定するようでいて、実は人生そのものを否定するような迷言が私の口から次々と生まれていきました。

「人生は、つまらない。」

 そのような偏った価値観は、ある意味では、自分自身を守る鎧でもありました。例えば、誰かに裏切られたり、事故や怪我に見舞われたりすることがあれば、「まあ、人生なんてこんなもんでしょ。」と、利いた風な口を叩くことができたからです。頑張らない自分に対しても「まあ人生なんてこんなもんだからね。」と現実逃避することすら可能にしてしまいました。
 しかし・・・。

「どうして人生を楽しくないと思うようになってしまったのか・・・?」

 自問自答をすると、とにかく心が弱い私は、自分以外の事柄に問題を見つけては原因や責任を押し付けようとしてしまうところがあります。しかし、境遇というものは引き金でしかなく、何をどう感じるかという感性とは自分の心にしかないのだから、自分の感性を形成している要素の根本的な因果関係を見つけなければ、考え方は変わらない。そう思いました。
 また、自分を取り巻くこの世界にも矛盾を感じていました。
 幸せそうな顔で、楽しそうに生きて、しかも楽しみながらいわゆる成功を勝ち得ている世の成功者たちがいる。自分とあの方々との違いは一体何なんだろうと考えるようになったのです。

 私は、AIを学ぶという、今までの自分にとって非現実的とも思える時間を過ごす中で、その答えをようやく見つけました。

「人生がつまらなかったのは、つまらないことを選択していたからだ。面白いと思うことを選んで行動すれば、人生は面白くなっていく。」

 とてもシンプルな答えでした。
 きっと、この世界に生きる誰もが認識していることだと思います。
 ようやく気が付いたことに対して、気づくのが遅すぎだ、と自分自身を非難したくもなりますが、今は自分を責めるようなタイミングでもないと思っています。
 なぜなら、これからは、面白いと思うことを選んで、行動していけばいいのだから。
 そのためには、挑戦する必要があります。挑戦したり、試したりしてみなければ、面白いかどうか、実感ができないからです。
 また、自分の実感を信じる必要があります。誰かが面白くないと言っている事であっても、自分が試してみて面白いという実感を得ることができれば、それが全てです。他者の言葉を全てにしてしまっては、ただ情報に流されるだけで、自分の実感や本心を見失わせます。

 私は、決して、若くはありません。世間ではオジサンと呼ばれる年代に入って久しくなりました。
 そんなオジサンの私がこれからエンジニアとして就職することは、アメリカまで泳いで渡るくらい難しいことでしょう。
 それでも、自分が「面白い」と実感できることに出会えたことを単純に嬉しく思っています。その積み重ねが人生を面白く、さらに素晴らしいものに変えていくと確信しているからです。
 その最初のキッカケを与えてくださったAIdemyの関係者の皆様、本当にありがとうございました。心から感謝しています。
 関係者の方々といつかどこかで会える日を楽しみにしています、と言いたいところですが、なにせオンライン上だけでのやり取りだったので顔も分からず(AIで顔の認識の学習をしていたにも関わらず)、それは不可能というものでしょう。
 それでも、感謝の気持ちは変わりません。たとえ少しの時間であっても、ご厚意を持って接してくださった方々のことを、一生忘れることはありません。
 本当に、ありがとうございました。


 ちなみに、下記のURLが、IT原始人が作成したAIの成果物になります。HTMLやCSSやJavaScriptのスキルが原始人レベルなので、現生人類レベルへの進化を目指す過程において、アップデートしていく予定です。

https://aferventus04.herokuapp.com/
https://aferventus05.herokuapp.com/

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