幸福とは闇を裂く閃光


前回の記事が表なら今回は裏ということでお願いします。


曲並べのゴッコ遊びでキャッキャウフフしましたよという話は最近のこと、私のLUNKHEAD好きは高校生の頃にさかのぼる。
私は漫画やゲームが好きなオタクで音楽は聴くのは好きでも疎く、旦那は趣味が空手と麻雀とネトゲとドラムという何の冗談だってぐらい明るいの先から暗いの三丁目まで振り幅をもつ活動的ヤローで昔には軽音楽部とかやってたもんだから「私は旦那に布教されてハマった側」だと誤解されやすい。
実態はそれぞれ勝手に一人で好きになって二人で好きを加速させているにすぎない。
LUNKHEADを好きな人々がたまたま夫婦なのである。そりゃそれで凄いことであり奇跡であってそんなの道端に転がってるもんなのね日常でちみちみ消費しちゃってるのねという感じ。
まぁそんで、その片割れがLUNKHEADを知ったのは義務教育の9年間を常にいじめられ続けて、すねに傷を持つ言いかえ中身に致命傷を持つ人間になってから高校へ入学し、そしてしばらくたった頃だった。

高校ではいじめられなかった。
いじめっ子どもが受験しない進学校を選んで受験した。自分を今いる地獄から地上へ押し上げるための勉強を経て勝ち取った生活は平穏だった。
じゃあ良かったじゃないもう終わったのね平和だねなんて言われたけれど、ところがどっこい私の心は安まらなかった。
だって私は中学を卒業しただけ。
彼らと違う学校に行っただけ。
それは離れたというだけで「いじめっ子を、いじめられっ子をやめます」という宣言は誰もしていない。
現に地元でうっかり会おうものならからかわれた。遭遇するだけで同じ目にあった。
まるで昨日の続きのように同じことをされる状態を、どう解釈すれば終わったと言えるだろう。
ずっと「まだ追ってくるんじゃないか」と怯えている生活のどこに穏やかさがあるのだろう。
何かを終了するということは、とてもとても難しかった。
私が始めたわけじゃないことだから、尚更。

死は決して軽くはない。
でもコインの裏表みたいに、生きることから目をそむけると自然と死が目に入ってくる。
これ以上まだ続くということの代表格が生きていることだから、続く苦しみから逃れたい人は死にたくなる。
死にたい気持ちは本質じゃない。
断ち切りたいのであって、その手段の一つが死ぬことなだけ。
そういう「いくつかある手段のうちのひとつ」として死を見つめてしまうようになると、大抵の人から「死ぬことをわざわざ視野に入れなければいいのに」と突き放されてしまう。
例えるなら幽霊が見える人みたいな扱いだ。
貴方には見えないの?なんて言ったところで無意味だ。見えないものは見えないんだから。
見えない人にはずっと見えない。
羨ましくなる、私だってずっと、そんなもの見なくていい人生が欲しかった。だけど見えるから見るしかない。
見える自分で、生きていくしかない。
そういう「見える人」に対して「自分にも見えますよ」とただ言ってくれる人の存在はどれだけ心強いか。
一人じゃないことがどれだけ嬉しいか。
「死にたいなんて思わない奴がいるものか」と、死を思ってもいいんだと肯定してくれた嬉しさは、今もずっと心の中にある。

終わらせられない私に応えるように、理由の要らない「ただ生きること」を歌ってくれたLUNKHEADを、私は愛している。

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