著作権の問題がありますので、全ての文章を他に使用したり転載する事を禁止します。「芸術の価値」

楼閣の比喩を語る前に、又巷にバレエ芸術を破壊する事の問題や更に広くバレエ界についての方向性について必要な観念・・・ものさしといってもいいのですが、それを目指すところの或いは問題のタブーを明確にする為に今回は「芸術の価値」についてお話したく思います。

楼閣の比喩を分かりやすくするために。さっくり楼閣の比喩を説明すると心眼で見るとSNS島があり、沢山のTV塔がある。TV塔とはユーチューブchのことです。そしてそのTV塔には建物が更についている。     その盾も尾を心眼、心の眼で見ると民家の1階建てもあればカラオケ館のようなものもあれば会社のようなものもあると。その中で楼閣というのは伝統的・歴史的な格が高い建物の表象であり比喩です。階数はch登録者数で表現。100万人ch登録者数は10階建て、60万人ならば6階建てね。まあこんな感じ。今回は偽物の楼閣現象は何だーとするテーゼね。何故なんだーですね。

では狭義のバレエを広める・・・つまりバレエ芸術なるものが世に人気をはくすべく感動して頂くとする活動を含めた言葉とは何か?その雄弁と価値とはいかなるものか?についてです。

真実の価値について言うならば、今回出鱈目な事をやっているプロバレリーナに必要な言葉とは何だったのか?何が必要なだったのか?
それは沈黙の雄弁というものです。(狡猾の雄弁ではなくまずは沈黙です)
沈黙の雄弁とは一幅の絵のようでもあります。                特にバレエ芸術に置いては、台詞がないので沈黙の雄弁を身体や表情で表す。(勿論これは三文大衆芸能偽バレエではなく本物のバレエ芸術作品に置いてですよ)
このバレエ芸術の雄弁の見事な事といったらさすがの芸術であり創造性に置いては、その身体表現に言葉や台詞より群を抜くものの魅力がある。
肉体で語り演じる沈黙の雄弁。
雄弁という表現は少しおかしいかもしれないけど、問題となったテーマがバレエを広めるとする少なからず説得力を持つべく印象があるので雄弁と表現しました。
実際は全てに置いてバレエ芸術とは雄弁というより高度な言葉以上のもの。詩的(ポエム的)なものなんだけど。
要するに、あれこれ言わず身体で表現してみろや!
口で言う事じゃないだろうが?といったところ。               沈黙の雄弁でもって前に突き進むのが本物のバレエアーチスト。        芸術の価値や重みとは、見る人に敬虔なまなざしを向けられること。      敬虔という字は難しく敬いつつしむという字です。
敬虔とは何か?と申しますと敬いつつしむ気持ちの深いさま。崇敬心。goo国語辞典より。あと一般的に神仏を深く敬いささえる心など。このような厳粛な気持ちを抱く場面は、よく小説で人にも使われます。心の琴線をうつべく厳しくも尊いもの。
まるで神仏の存在を思わせるような霊妙かつ威厳にみちた印象。
この人に敬虔な気持ちを多かれ少なかれ感じさせるものが芸術であり、時に天上だか不思議な世界やビジョンを彷彿させるものの類もある。多大なる影響力を持つもの。これが芸術や天才創造性なるもの。
さすがにそこには神仏だか天上の何等かの計らいがあるよう。         敬虔なまなざしを向けるべく感想を持たれるのが芸術。
これが三文大衆芸能と芸術の違いです。
歴代・伝統的芸術は本物じゃなければ0点の世界です。
もしバレエを世に知らしめたいと仮にバレエ団員が思うならば、寝る間も惜しんで天才系の作品を熟読し高度な創造とは何か?を見極める必要がある。これには試みてから10年ぐらいかかるけど。    
だからこそ以前にも私はお話したけどバレエ芸術を世に広めたいとするならば、天才的な或いはそれを見極めるとする事が必要でありそれは芸術監督の仕事であるわけで、その元でその作品を沈黙の雄弁の如く演じ舞うとするのがバレリーナの仕事であるのが自然です。その組織で働くとするのはそのような義務のようなものもある。勝手に三文芸をバレエと称してやっちゃいけないよとする事ね。(組織に所属してなければ自由でしょうけれど)

三文芸をもとに
バレエに興味を持って欲しいとする能弁など余計なお世話。
バレエ芸術ブームが起こるほどの作品を創造するのが先であり、バレエへの価値観や興味関心が薄いと見えるのは、その方たちの努力不足です。というか正確には今どこのバレエ団もバレエ芸術の第二期発展途上にあり、その方向に動いています。
三文大衆芸能は死ぬまで永遠の偽物であり、それはバレエじゃない。
出鱈目を人に知ってもらうとするのは破壊者のする事です。このような事は私なんぞに言われなくてもバレリーナは分かっているはず。
とにかくそのような創造の芸術の見極めなど通常の多忙のバレエ団員が出来るには難しいので、自分たちのバレエ団の作品をアピールしたり海外生活に置いて1つアーティストとして主張出来る事は信念のバレエ向上の努力をしているよ!とするものぐらいだと思います。本物の多様な他者のバレエ芸術作品を紹介したりも素敵な事。

芸術の価値のお話に戻しますが、
視聴者や観客や人さまに置いて、嵐の如く歓喜のブラボーが渦巻く中には、感動の涙があったり、深く人を瞑想の境地に誘うように感じさせるものがあったり、この感動を友としての(友って友達の友ね)ひとときや時代は大きな事だと思います。そしてこの芸術というものを鑑賞する側は大小さまざまですが敬虔のまなざしを持つ。私が信念という言葉を芸術界の宝であると言うのは、これがなくして何でもそうだけど本物は出来ないからです。
信念なる芸術作品とは、どのような喜劇であれグロテスクな劇であれ、ロマンスであれ、それを見る人に高尚な敬虔な気持ちや感謝の気持ち時に偉大な存在を感じさせる。深い瞑想的なものを感じさせるところに置いては、心の浄化作用もあったりします。まあ美の究極なるビジョンの素晴らしい事といったらもう。
魂が洗われたり希望に輝いたり時に地獄に落ちたかのように恐怖やド肝を抜けれるような思いをしたりと全てに意味があるというか。              アポロ的とかディオニュソス的とかね。                 あとですねバレエ芸術に置いては建築芸術の要素やビジョンもあるとチラッと聞いたのですけど、これは奥深いと私は想像します。
とにかく芸術や天才と他との一線を画するものとは、少なくとも敬虔なまなざしの存在があるかないか?で分かりやすい。ただ単純に敬うとするものじゃないのですから。
このような本物の芸術は一時ではなく半永久的に歴代に残るもの。       バレエも芸術の範疇です。バレエ芸術の発展とその伝統を守る為には妥協はあってはならない。
本物をないがいしろにした(これはダンサーの信念や魂も同じく本物かどうかが問われる)妥協やつまらん利益なんちゃらになった場合、それは個人もバレエ団会社ももはやプロでも正規のバレエ団でもなくなる。
また会社以外のバレエ団の個人団員が出鱈目な楼閣現象を起こした場合(本物のバレエ芸術作品ならいいんだけど)この会社側にも責任があるし、特に目立った責任性を問われなくても組織も一気に三文大衆芸能の地に落ちる。沈黙の雄弁で語る事の作品を口を借りて出鱈目或いは三文の舞で表現した場合、組織丸ごとそうであるとするものだと私は思います。その道を行く人には一人ひとり個人には責任があるという事につきます。
これの何故そうか?に置いては、また少し先になるけど楼閣の比喩まとめ編でお話します。
芸術の価値についてのお話に戻りますが、私達庶民は芸術に置いては、その意味や内容が分からずとも本能で敬虔な悟りがあったりします。これは人間である限りある。本能的に先験(アプリオリですね)の肉体に備わる器官以外の謎の神秘の器官で分かる。
このような芸術に触れるとする事があるって素晴らしい事なんです。      だから私は芸術を守りたい。
SNS時代になり、非常に残念な事が日本から出てしまった。y氏とNさんの事です。ここで何とか今後問題を起こさせないようにせねばならない。
私が憂うのは、SNSでの影響力です。
個人はもとより多くのバレエ団会社にまで芸術の気概の精神に置いて腐食させ、何等かの利己主義な状況になり多くのバレエ界に支障をきたすのではないか?信念の気概の精神を持つべく芸術求道者の道や精神が退化したり劣化するのではないか?と思うからこそ躍起になっているのです。
また本能で芸術や崇高なるものは人間は分かるとしても、その素晴らしい芸術作品に触れなければ分かる事など不可能でしょう。だからこそ芸術の道を行く人には苦労もあるとは思うけど欲にとらわれず頑張って欲しい。
とにかく覆してはならない敬虔な芸術の道をひっくりかえすような言動に置いては信用を失う。個人もバレエ団会社も。信用を失うとそれを取り戻すのに100年かかるとは言いますが、まあ信用を失ったらおしまいとするところでしょう。
これは一般論ですが、どんなバレエ団会社側の上層部やある個人が優れていようとも本来の信念の一流看板の芸術を5流に落としたバレエ団腐食分子があるとしたところに置いて、それを成すがままにやらせてしまったとする現象に置いてはアウトです。そのような監視監督もできずして厳しい芸術の道を行けるわけがない。

あとですね腐食分子と違う見方もある。                  それはバレエ団会社側も勿論バレエ団員もバレ芸術創造に置いて、それを追求・制作するに力がなく限界がある場合です。             このビジョンについては、次回の動画で「新しくも予言的な芸術の価値と未来の展望」という動画で明らかに致します。バレエ界は古典作品に限らず創造の時代に入っており、多くのバレエ団はそのバレエ芸術のオリジナル性に置いて努力邁進する発展途上に現在あるとする話なんですけどね。

力がない才能がないとする現実がある場合、バレエの高尚な楼閣にもしも力のないガラクタオリジナルを入れた場合の雑居ビルが混入し混ざる場合がある。ガラクタというのは本物じゃないという事です。(これはどこかのバレエ団会社を言っているわけではありません。今のところそれは常識なので、公演でそれをやっているところはないと思います。しかし個人のバレエ団員がそれを暗示・示唆する場合がある。そうなるとバレエ団会社も当然株がおちる。一人一人に責任があるとする立場を考える必要がある。それはバレエに限った話ではない。どこの会社でも商品に置いて個人が格を落とすような行動は許さない。ここではバレエは商品です)              先に私は歴代バレエのような伝統的芸術は本物でなければ0点の世界だと申しましたが、この雑居ビルが混入した場合、もはやバレエ界の主流となる伝統の敷居の高い楼閣のバレエ団ではないし個人でもない。

私が憂うのは、このように低堕落化が広範囲に広がる場合もはやこの世の中から高尚なバレエ界がなくなる或いは少なくなるとする事なんです。

だからそれに惑わされる市民となるな!と警鐘を鳴らしたい。      糞も味噌も一色だにして、まあガラクタ芸は気が晴れるわとするどうでもいいとする感想には私は辛い。(ここで言うガラクタ芸とはあくまでも純粋なバレエ芸術やパフォーマンスと比べてのものであり、特にバレエの志や信念とは真逆のものを演じ、それをバレエ芸術とするものへの表現です)

本物でない0点の作品と言うのは、プロではない一般人が趣味でバレエを習い、それを今流のダンスとしてお遊び感覚でやっているものの作品。   本物かそうではないか?こういったものは大抵は、私達はあの肉体に備わる器官(目や耳や鼻や舌や触覚神経や五臓六腑など)以外の第二の謎の神秘の器官で分かる。                           しかし発信者が言葉巧みであると本来のバレエ芸術を目にする機会が少ないと分からなくなる事もある。

本物の価値がなくなるとするのは寂しいものです。そして、この出鱈目ガラクタ芸をする人がプロだのバレエを広げたいだのとのたまう活動というのは逆にバレエから人を遠ざけ破壊する事となるんです。バレエがガラクタ芸であるとするものに変わる。

だからバレエ芸術の道を行く人は責任持つ言葉を意識せねばならない。

そしてその言葉とは沈黙の雄弁だという事なんです。沈黙の雄弁とは発信側の作品(沈黙にして言葉じゃなく肉体で表現する作品)でもありますが、感動するお客様の内奥に響く言葉ではいいつくせない感動の敬虔な思いです。

結局、本物の作品を作ってからやれとする事です。

創作の極意としては、実は本物の創造性は確かに能力や才能がいるし簡単ではないけれど、例えば仮にバレエ団会社側がまあ妥協してスター性を意識しマイケルジャクソン風を狙うにしろ、これは本物のバレエ芸術作品にはなりにくいし、もし万に1つの可能性があるとして見た場合実は、高度な本物志向の創造よりそれを楼閣化するには遥かに難しいのです。バレエ化するに難しい。だから急がば回れで本物を時間をかけて追及したほうがいいと思う。   ゼロとは言わないけどまあ無理があるし何よりすぐに飽きられ短命です。 時を経て半永久的に作品が残らないとするのは本物じゃないというところですが。とにかくですね、これはどこのバレエ団会社というものではなく全部なのだけど発展途上を歩む試行錯誤の迷いの時に、バレエ界だのプロとは言わないほうがいいでしょう。そしてやはり沈黙の雄弁でもって作品が完成しない事には話にならないのです。中途半端なものは恥ずかしくなって穴に隠れたくなるでしょうし。それが日本ではいいんだという事になったわけか?

だからこそバレエに疎い日本人をバカにしているのか?カモにしているのか?と憤懣を起こされる事にもなりかねない。ましてやバレエを広めたいいわゆる知って欲しいと言うのはどういう事か?バレエ芸術も分からんで何なんだ?そして利害的なものも必然的に発生するとする状況で非常に嫌悪を抱かれる。おめーに諭されるほどアホじゃない。沈黙の雄弁やれや。敬意を持ってみて欲しい?だと100年早い!とする現実となる。

私も芸術求道者の道を目指しているのだけど、だからこそ私はこのように感じます。私がもしそうだったら、そこには志が皆無だと分かる。      志は信念よりソフトなイメージがあるけれど、志あっての信念なのです。

志・・・それは初心です。

雑居ビル芸の披露する途上で、
例えばこれは個人性に置けるものだけど、たまには普通のバレエの舞を披露したところで一張羅の如く又それかい?独楽踊り。たったそれだけ?もうおしまい?作品性なし志なしの三文精神一張羅かい?という印象になる。
全てに置いて飽きられ短命。
どんなに良い舞をしたところで、その精神性に置いては三流以下となり笑われる。
二流から三流に落ちるのは目立たないが、一流から五流に落ちたらさすがに滑稽だ。しかも沈黙の雄弁ではない東大表現(トップの比喩)の楼閣の看板のプロを口上手く話し、やっていることは三文大衆芸能や小学生並みともなると。東大の意味もないわけだ。
実は、この笑う輩というのはファンだったりする。不満を持つ輩は、たまには当たり前の事をやるか?と思ったりどうかもう東大的メリットプロワードを操っての三文大衆芸能エチエチ楼閣劇場は辞めて欲しいので、少しは心が救われるといったところ。
しかし以外にホイホイ応援してくれる人が軽くみる。三文大衆芸能に慣れ親しみ子供むけお買い物スーパーのショーを楽しみとする人々にはつまらない。イカ踊りをリクエストしたくなる。またこのような三文大衆芸能をやっていると、魂も身体も退化劣化する。芸術は正直だ。
私が憂うもう1つの問題は、これも一般論ですが、錯覚資産を基礎に楼閣占領電波空中的欲望で(楼閣というのは一流のバレエ芸術の建物の比喩で、沈黙の雄弁の如く本物のバレエ芸術ではない三文大衆芸能劇場は雑居ビルね)一流のプロが発信するとする楼閣を視聴者の脳に刻印することだ。
バレエに疎い人達は、それを見て芸術の伝統の楼閣というものが、三文大衆芸能エチエチいちゃいちゃ劇場が新しい時代の幕開けの芸術楼閣&立派な人に見え、その作品や演じられていることが文化だとか芸術と勘違いしてしまう事。例えば実際は芸術の光として表現するに光の愛の強さを太陽とした場合、目に狡猾の霧だか無知の霧を伝播よりかけられ、ばんやり闇夜にかかっているメッキのような満月を見て太陽だと思うところの錯覚を視聴者に起こさせるとする事があるとし私は耐えられなく、あってはならないとするところで憤りを感じた。
まあ結局、憂う必要なくSNS時代AI技術で、自然と本物のバレエ芸術がコンパクトな形で視聴者の眼に飛び込むシステムになったので、誰が見てもメッキの月だと丸わかりなのだけど。でもデタラメが多くなると本物が目につきづらくなるので危険。今のうち何とかしないとと思われた。
そうそう私の意見や感想をもしゴミと言うならば、それは誹謗中傷というものだと私は思う。この正しい意味での誹謗中傷論に置いてはまた機会を改めて動画にあげます。正しい意見や感想がないと世の中おしまいだとする事ですが。誹謗中傷という出鱈目な理解でもって人を委縮させ、言論の自由を奪うとすることは大変だと今話題にもなっている。私は世の破滅に繋がるとも思ってますが。
まあ、憂う話は今回はこれまでとし、新しくも予言的な芸術の価値と未来の展望のお話を次回はしたく思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?