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耳をすませば

実家の玄関には立派な金木犀が植っていて、花の咲く時期には風に乗って私の部屋まで香りが届いた

実家の隣はパン屋さんで、夜中から明け方頃にはうっすらとパンの焼けるほかほかした香りが枕元に届いた


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歳の離れた姉がまだ実家に住んでいた頃、実家の周りに線路は無いけれど夜中になるとすごく遠くで列車の走る音が微かに聞こえるんだよ、と言っていた

貨物列車だから音が長いとか、田舎だから音が通るのかな、とも言っていた気がする

まだ幼かった私は夜中まで起きていられたことはなかったし、睡眠の質も寝入りもいい方なので夜中に起きてしまうこともなくて、夜中に聞こえるらしい列車の音はなんだか大人っぽくて羨ましかった

2人の姉がひとりずつ家を出て、子供部屋が私だけのものになった頃、私は夜中まで起きていられる歳になっていた

けれどその頃には列車の音の話はとっくに忘れていて、夜中まで漫画や小説を読んだり、ゲームをしたり、好きな人と長電話をしたり、メイクの練習に励んだりと忙しくしていた 悩み事も多く、目の前の物しか見えなかったし目の前の音しか聞こえない、視野の狭い年頃だった


先に書いたように、私は寝入りがとても良い

一度寝ると朝まで起きないし、どんなことがあっても大抵すぐに眠ることができる 寝れば大抵元気になる

でもあの日、あの1日だけは珍しく、どうしても眠れなかった




つらいことがあった

つらいことなんていくつも何度もあるけれど、その日だけはどうしても眠れなかった

頭にガツンと響くような傷付き方ではなく、前世から温めていた恋を永遠に失ったような、じんわりとした喪失感のある夜だった

どちらに寝返りを打ってもしっくりこないし、わぁっと泣くこともできない いっそのこと起きてしまおうと思えるほどの元気もないし電気をつける気にもならない 携帯の電源はもうずっと切っているので時間もわからない

遠くで暴走族が夜道を走る音が数回聞こえたきり、車の音も虫の音もしない、静かな夜

ベッドに寝そべったまま、秋の夜風でカーテンがそよそよ膨らむのをじっと見つめてとりとめもないことを何時間も考える



何時間経ったのか、答えの出ない考え事に体力を持っていかれてぼうっとし始めた頃、遠くで微かに「カタン」と音が聞こえた気がした

リズミカルに続くその音は、本当に音が鳴っているのか気のせいなのかすぐに判断がつかないほど微かなもので、私は思わず身体を起こし、目を瞑って息を止めると耳に意識を集中する

ずっとずっと遠くに、でも確かに音が聞こえてくる



ガタンガタン、ガタンガタン、ガタンガタン


長い長い貨物列車が、遠く離れた場所を通る音だった

小さな音はそのリズムのお陰でやっと列車の音だと分かる程度で、息を吸ったり吐いたりすると見失ってしまうほどに儚い

これほど遠くから届く微かな音を聞こうと耳を澄ましたのは生まれて初めてだった


ああこれが、いつかお姉ちゃんが言っていた夜中の音なんだ と 膝を抱えたまま、列車が居なくなってしまうまで息をひそめた

ずっと鳴り止まないでほしいなと思うほどに心地の良い、軽やかな音






しばらくして列車が去った後、耳に集中していた感覚が身体中に帰っていく


カーテンが大きく膨らんでふと、金木犀の香りがした

つらい出来事に囚われて、そのことだけしか考えたくなくて五感をシャットアウトしていたことに気がつく

さっきまでは何も感じなかったのに、今はいい香りも小さな音も、空腹さえ感じる

金木犀に混じって漂うパンの香りのせいかもしれない

という事はもう明け方なのか と考えているうちに私はすとんと眠りに落ちた

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今も、何かに囚われて視野が狭まったとき、心の中であの軽やかな列車の音を思い出す

少しでも鮮明に、長く音を聴きたくて集中する

目を閉じて、息を潜めて、ぐっと力を込める

列車が通り過ぎたあと 目を開けた時にはもう、視界は拓けている



ある秋の夜に生まれた私の大切なおまじない























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