あえば直道 苦闘の連続だった幼少期

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2020年の大統領選挙、新型コロナウイルスを発端にした世界的な動き、5Gを巡るアメリカや中国の情報戦争など、日本は激流の中に身を置いている状況です。そんな日本、そして、アメリカなど、複数の国で活躍し、一般社団法人JCUの議長としてマスコミなどに登場しているのがあえば直道さんです。マスコミに登場する一方、あえば直道さんの人となりはあまり伝わっていないのが実情です。あえば直道さんとはどういう人なのか、今回はあえば直道さんの幼少期を中心に、改めてご紹介をしてまいります。

日本で食べる世界の料理の方が最高レベルであると豪語するあえば直道さん、誕生したのは1967年、昭和42年、1月5日生まれで、現在53歳です。1967年といえば総選挙の開催や日本初の自動改札機、世界初のATMの設置など、これから世界の人々が豊かな日々、便利な毎日を享受することが考えられた年でもあります。あえば直道さんは神奈川県横浜市で誕生し、司法試験に合格したばかりの父と、裕福な家庭で育った母親の下に生まれます。あえば直道さんの父親は天才タイプでありながら自由人だったこともあり、かなりアグレッシブな動きを見せ、弁護士事務所を開業し、プライバシーに関する本も出します。医療についても詳しく、その活躍が評価され、あえば直道さんの父親は大手企業の顧問弁護士になるなど、やり手の弁護士としてその世界では有名でした。一方であえば直道さんの母親は、父親とは反対に大人しい人物で、優しさにあふれたお母さんだったようです。あえば直道さんの現在の活躍を見る限りでは、お父さんと性格や資質が似ているのかもしれません。
あえば直道さんのお父さんは、息子に対し、私にはきっち使命があると語りかけ、同時に、前にも必ず使命があるはずだと語りかけます。人生をかけてそれを探し出すように求められたあえば直道さんでしたが、さすがにまだ小さく、父親が口を酸っぱく使命について語っていたものの、それが何を意味するのか、自分の使命とは何だったのか、そこまでは分からなかったそうです。
3歳の時に近所の幼稚園に通うことになったあえば直道さんでしたが、その時は2年保育しかなかったそうで、本来であれば年少クラスに入るべきところを、年中クラスに入れられてしまいます。アメリカに単身乗り込んで、1人で開拓し、共和党に強固なパイプを築き上げたあえば直道さんですが、さすがにこの当時はそこまでの図太さはなかったようで、年中クラスの中、萎縮した日々を過ごしたそうです。あえば直道さんの一家はその後引っ越しをし、そこでは年少クラスから用意されており、既に年中クラスを経験していたあえば直道さんは、その状況によってイキイキとした日々を取り戻し、リードするような立場になっていきます。


あえば直道さんにとってターニングポイントになったのが、いわゆるお受験です。スパルタ教育のお受験塾に通うことになったあえば直道さん、時間的制約やスパルタ教育という環境の中、とても優しく大人しいお母さんに守られながら、なんと慶應義塾幼稚舎に合格します。慶應義塾幼稚舎に入れば、あとはエスカレーター式で慶應義塾大学までという環境、エリートコースは約束されたようなものでした。ところが、これだけのエリートコースですから、同じようにそこに入ろうとする人は多く、中には政治家や官僚など、既にエリートコースをひた走る父親などを持つサラブレッドも入ってくるため、あえば直道さんは入って早々に挫折を味わうことになります。年少クラスの子供をリードしていたあえば直道さんも、エリート候補生が集まる慶應義塾幼稚舎の中ではどうしても見劣りし、勉強だけでなく運動でも挫折感を味わい、劣等感に苛まれることになります。


劣等感で押しつぶされそうになったあえば直道さん、幼い体にかかるストレスが相当なものであったことは容易に想像でき、結果的に太ってしまいました。モチベーションは上がらず、やることなすこと全てが裏目、このような状態だと、勉強の予習も復習もしようとは思わなくなるのも納得かもしれません。徒競走では下から数えた方が早く、スポーツのルールに興味がないために何をやっているかわからない、肥満児用の洋服を着させられ、家に変えればテレビを見る日々、ドラマにアニメに歌番組、こんな生活をしていれば負のスパイラルにハマるのは当然です。このような状況に陥ったあえば直道さんについて、周囲の人間は残酷なあだ名をつけます。それが「あえバカ」です。屈辱的なあだ名に、反発する気持ちはほとんどなく、むしろ、バカだから何もできないと思い込んでしまう状況になっていきます。
アメリカや日本の行く末を語る時のあえば直道さんと同一人物であるとは到底思えない状況ですが、父親が口を酸っぱくして語る「使命」にどこで気付いたのか、次回はあえば直道さんの中学高校時代を振り返ります。