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歴史変動19 2023.2.2

 予期せず、万葉集の解読になって仕舞いました。
 しばし、お付き合い下さい。

 万葉集5番歌6番歌7番歌 長い為、歌省略。
天智天皇の腹違いの弟の軽皇子【有るとすれば、倭国東朝の皇極天皇の次の孝徳天皇、実際は、斉明天皇(倭国本朝の天豊財重日足姫天皇)が飛鳥板蓋宮で645年に倭国本朝と東朝の天皇に即位して居ます。其の歌が7番歌です。菟道稚郎子天皇と皇后髪長姫の無税にして耐え忍んだ藁葺屋根の宮に、飛鳥板蓋宮(誰だ九州自動車道の下にした愚か者は)を擬えて居ます。】の子の有間皇子が作者です。此処に出て来る大王は、父の孝徳天皇です。孝徳天皇と有間皇子は、唐と戦う気で居たのです。体調が悪いと伊予温湯宮(道後温泉)に出かけました。(邪馬台国は蘇我系の推古天皇に潰されたので、誉津別命系統のユダヤの遠賀物部氏説得が目的)其の時の歌です。紀伊半島和歌山県の牟婁の白浜温泉では有りません。遊んで居る余裕は有りません。唐と戦う決意を固め、体調が戻ったと報告して、天豊財重日足姫天皇は、伊予温湯宮に出掛けました。(此処は、遠賀物部氏ーユダヤの移住場所です。)此時に高市岡本宮に残って居た有間皇子に蘇我赤兄が天智天皇の名を受けて、戦をする気だと聞き出し、皇極天皇(645年以後も生存)に対する謀反だと断定して、(新羅と協定を結んで居た。唐とは絶対に戦わ無い方針を貫く為)有間皇子を絞首刑にしました。
 此れが、後に壬申の乱に結び付くのです。
 倭国東朝は589年に四万の兵を倭国本朝天タリシヒコに従わせて、中国陳に4年間出兵させているのにです。

万葉集8番歌9番歌
 此れは、660年百済戦争に出陣の歌です。其の証拠に、遠賀川の塾田津(今の新北)から出て居ます。遠賀川には水深1mの箇所が有り、満潮で無いと船出出来ませんでした。
 9番歌は、地図を良く知る四鈴のユダヤの遠賀物部氏の出番だと云って居るのです。(倭国本朝は物部アラカイが継体天皇より、設立を認められて居ます。)

万葉集10番歌11番歌12番歌
10番歌
 吾有間皇子は、岡本の宮に居る、孝徳天皇と天豊財重日足姫天皇と共に歩みます。
11番歌
 狩をする時の獲物の追い立て役は、稲穂が無ければ、小松の下の草でも庵を作って寝るのです。其れで充分です。
12番歌
 野嶋は珠の取れる処です。つまり、中国の近くの子安貝の取れる尖閣列島です。
 此から、中国とのイクサが始まると云って居るのです。

 やっぱり、天タリシヒコは、海神軍団と共に、沖縄経由で、中国陳に乗り込んだのです。



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