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謎の四世紀

 タイトルが混雑して来ましたので、整理します。
 此章は、和歌が示す古代史3に続きます。

 応神天皇は二人居ました。と書くと驚くでしょう。実際は、漢風諡号では無く、和風諡号上の話です。応神天皇を調べて下さい。和風諡号に二つ有ります。
誉田尊と誉田別尊です。別の天皇です。
 誉田尊は倭国本朝の天皇です。356年父武内宿禰、母神功皇后の間に第一子として誕生しました。中国に、倭の五王讃として朝貢して居ます。武内宿禰は藤大臣です。弟が珍です。熊本県狗奴國の松野氏、姫系図に倭の五王だけ漢字一文字だけで記載されて居ます。
 誉田別尊は、倭国東朝の天皇です。父武内宿禰、母神功皇后の間に、358年第二子として誕生しました。此天皇が日本書紀に記載されて居る在位41年(358年~405年)の応神天皇です。
 つまり、東鯷国より、建降熊の軍勢が成務天皇(羽白熊鷲ー熊鷹)の福岡県の倭国に上洛した事になります。桜桃沈淪(ユスラチンリン)が中国地方と北九州で蠢いて居ました。此の退治と邪馬台国の成務天皇打倒、訖解尼師今の支援が目的でした。
 桜桃沈淪は辰韓出身とありますが、ビル百済と思われます。辰韓は東鯷国と戦う筈は無く、其の時点では、まだ辰韓は新羅になって居りません。
 武内宿禰が、第二の仲哀天皇(伊都国の一大卒、日本武尊が福岡県の熱田神宮の叔母の倭姫から草薙の剣を貰って居ます)の子孫の、籠坂尊、忍熊尊の草薙の剣を奪ったのです。
 356年辰韓に出陣したのは、武内宿禰と建降熊です。訖解尼師今を支援し、子の神功皇后を日本に連れ帰ったのです。
 三国史記五世紀の記事に、四世紀に姫を倭国に嫁として送ったので、今回は取り止めたと有ります。
 494年継体天皇即位で、狗奴國が、東鯷国から倭面上国の3度目の奪還を、果たしました。
 継体天皇は、24年の詔勅(517年)で倭年号継体を創設しましたが、522年半島戦敗北で、子の欽明天皇が即位しました。
 倭国本朝は、新羅を支援した磐井(鐡、新羅に祖父倭王武が敗北し支援せざるを得なかった)の敗北で一旦無くなりましたが、戦った、物部アラカイが後を引き継ぎ、子孫のアメのタリシヒコ(天武天皇の祖父)が陳征伐に出陣して居ます。

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