見出し画像

先駆ける者たちに視る夢は~1998セイウンスカイ~2022タイトルホルダー~

きっかけはバビットだった。
2020年菊花賞、コントレイルの三冠を阻むかもしれないという上り馬のネット上の記事が私の胸をざわつかせた。

私はまず、過去15年くらいの菊花賞のレース結果を確かめた。勝ち馬に逃げ馬は見当たらなかった。1998年にセイウンスカイが菊花賞を制した時、1959年ハククラマ以来39年ぶりの逃げ切り勝ちと報じられていた。そこから22年の時が流れた。あれは、60年に1度の「事件」だったのだ。

私は就職した1996年の秋から職場の同期に誘われて競馬に触れ始め、セイウンスカイの軌跡を追いかけてのめり込み、ついには公務員を辞めて競馬ライターに転職までした。しかし2001年の第一子出産からほどなくセイウンスカイは引退、子育てに奔走する日々の中で徐々にライターの仕事は減り、競馬はいつしか季節を彩るニュースのひとつになっていった。2005年はディープインパクトが三冠馬となった年だがほとんど記憶にない。10年近く紡いできた私なりの競馬のヒストリーはふっつりと途切れた。
2011年にセイウンスカイが死んでいたことも、数年経ってから知る有様だった。私にとって、それはひとつの物語に終止符が打たれたという事実に過ぎず、悲しさを噛みしめるでもなく固唾と共に呑み込んだ。

コロナ禍が記憶の底の澱を巻き上げた。ステイホームで生じたスケジュールの空白を埋めるようにYouTubeの動画を観続けた。かつて愛した者たちの名を検索窓に入力していった。VHSテープとともに諦めていた記憶が、思いがけず鮮やかに再生されていく。
始めは当時の喜怒哀楽を思い出し、胸が躍るような興奮を覚えたが、それが徐々に収まっていくと、続いて後悔の念が押し寄せてきた。動画に映っている馬たちはほとんどがこの世にいない。セイウンスカイもいない。受け止めていた筈の現実に重さが宿り、ハッと我に返ったような気がした。2001年夏の札幌競馬場で、あんなにいと惜しく唇を噛んで背中を見送った大切な存在だったというのに。なぜ私はその死を知った時に、涙を流し声を上げて嘆き悲しまなかったのか、と。
バビットの名が耳に入ってきたのは、そういうタイミングだった。

今年の菊花賞は見届けなくちゃいけない。久しぶりにテレビで競馬中継を観た。尾花栗毛が美しいステイゴールドとタイキシャトルの孫は、しかし先手を取られて2番手を追走し、最終コーナーで先頭に立つも馬群に呑まれ10着に終わった。
私は22年ぶりの逃げ切りではなく、三冠馬の誕生を初めてライブで見届けることになった。1998年ダービーではレース後蒼白になっていた福永騎手は、すっかり貫禄のある風貌になっており、勝利騎手インタビューの映像に改めて時の流れを感じさせられた。

私がいなくても競馬は続いていたし、コロナの渦中も続いていく。
ひと月後には3頭の三冠馬がジャパンカップで火花を散らし、牝馬アーモンドアイが9冠目を戴いた。20年前の私には想像すらできない光景。2020年、この秋に競馬に戻ってきて良かったと震えながら思った。

私はなぜか逃げ馬に心を奪われる。
先駆ける馬も騎手もどんな風景を見て、何を感じ、考えているのだろうと思いを馳せるのが好きだ。生身で、時速60kmで、先頭で風を受けながら。標的となる人馬のいない緑の原を、自分のタイムのみを追い詰めながら。
自らの体力が尽きて脚が止まるか、後続馬に交わされて気力が潰えるか、の闘い。敗けた時には他者のせいにできず、勝った時には先行の利が語られ、フロック視されることも往々にしてある。
そうした逃げ馬の魅力と悲哀を印象づけたのは、初めて見た1997年牡馬クラシックで皐月賞、ダービーを制したサニーブライアンだった。レースの主導権を握りながらゴール前で後続を突き放す馬の強さと、大外枠から敢然と先頭に立った手綱さばきと「一番人気はいらないから一着だけ欲しいと思っていた」とレース後に語った大西騎手の潔さが、私の中の逃げ馬像の原点になっている。
サニーブライアンは脚を痛めてダービーを最後に引退したが、翌年にはサイレンススズカとセイウンスカイが競馬界を劇的に盛り上げた。1998年の毎日王冠と京都大賞典があった日は、50年生きてきた中で五指に入る幸せな日曜日だった(あの日は東京・京都だけでなく福島のメインレースもファンだった安田富男騎手騎乗の馬が逃げ切り勝ちを収めていた)。
しかし、そのひと月後にサイレンススズカは競走中の事故で落命し、セイウンスカイは当時の世界レコードタイムで菊花賞を制し二冠馬となり、その明暗も烈しかったが、セイウンスカイはその後G1勝利を掴み取ることはできなかった。
人気馬を尻目に先頭でゴールを駆け抜ける人馬の姿は、観客の目には爽快に映る。だが、逃げ馬が逃げ馬のまま勝ち続けることの過酷さ、困難さを知るからこそ、敢えてそれを選ばない、支持しない人も多いのだということを、苦さと共に私は知った。

バビットに誘われて、競馬観戦は再び私の週末を彩るメインイベントになった。
2021年の夏には北海道へ行き、10周忌を前にセイウンスカイの墓参りをし、念願のホーストレッキングも体験し馬上からの景色を愉しんだ。
こうなったら、何年後になるかは分からないけれど、菊花賞を逃げ切る馬が現れるまで観続けてやろうと思った。未来を見通すことができないというのは、本当に痛快なことだと思う。弥生賞を逃げ切ったタイトルホルダーに魅かれつつも、皐月賞、ダービーはエフフォーリアを推していた。

私の描く物語にとって幸運なことに、エフフォーリアは菊花賞ではなく天皇賞(秋)に向かい、タイトルホルダーの手綱が横山武史騎手に回ってきた。前哨戦のセントライト記念では大敗を喫していたものの、菊花賞の本命には迷いなくタイトルホルダーを推した。テレビの向こうの輝くような碧天の下、セイウンスカイの鞍上の息子とともに、彼の馬は悠々と先頭を駆ける。舞台は京都ではなく阪神だったが、これ以上はないというほどの設えで、吸い寄せられるが如くその結末に向かって時が刻まれた。
競馬は続いていて、私の人生は続いていて、約束を果たすかのようにここにまた交差する。

ひとつひとつのレースで、それぞれ人馬の意図と理由が交錯して位置取りは決まる。意図に反し、押し出されるようにして逃げる羽目になる馬もいる中で、その役割を敢然と取りに行く姿は清々しい。タイトルホルダーの他にも、グラスワンダーのひ孫のジャックドール、キングカメハメハの孫のパンサラッサと、個性的な逃げ馬が活躍しているのがとても嬉しい。

私はドゥラメンテを知らない。その息子タイトルホルダーが菊花賞、天皇賞(春)そして宝塚記念を制したことについて、特別な感慨を抱くことはない。だが、セイウンスカイがスペシャルウィークに屈した天皇賞(春)を逃げ切り、引退した年には検討されていたものの出走がかなわなかった宝塚記念を制したことには、階を上がるように夢を一つ一つ叶えていく姿が眩しくて涙があふれそうになる。

そして、明日は凱旋門賞。敢然と先頭に立ち、2着に粘ったエルコンドルパサーから23年。フォルスストレートからの最後の直線、人馬のいない緑の原がゴール板まで続きますよう。
現実とは思えないような、「でき過ぎの夢」が競馬では時に現れる。その夢を「でき過ぎ」にするのは、私が世界を見渡してきた記憶だ。私の中に紡がれた数多の記憶の糸から、手繰り寄せて綯い交ぜた夢。寺山修司が亡くなった年を過ぎて競馬に戻り、ようやく「人生が競馬の比喩だ」とした彼の言葉の意味が少し分かってきた気がしている。
ロンシャンに織り成されるタペストリーが何を描き出すにせよ、全馬無事に力を出し切るレースでありますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?