サウダージ

 私は割と怒られます(相手イラついてんなって感じた時点で怒られてるな〜と分類する人間です)
基本的には本当に本当に平和主義の良いヤツなんですけど、自己肯定感消失ネキな上に発作のように墓場へ向かってペースを上げ始めるからです。大体がこう言う理由。そして私の中では、怒る、イラつく、呆れる、心配(激しめ)は大カテゴリーとして「怒」に分類される。怒んないでね〜(遊歩する男/小林私)

悲しまれることはあまりない。付き合っている人に別れ話をした時くらいだと思う、ので実感してる中での最後は4、5年前か。悲しいのと怒ってるのと呆気に取られている、というのがミキサーされて今にも吐きそうなのに「幸せにできなくてごめん」と言った彼に、こんな時まで我慢しなくて良いのになと思った。気の弱い優しい男だった。

喜ばれること。もう生きてるだけで良いよ、と祖母には言われた。何してても良いから生きててくれだと。地獄だぜここは。鬼だな。
親友を喜ばせる?いやあれは慰める?ことは得意だ。彼女が悩んでいた頃は一旦泣かせてそれから笑わせるという性別が違えば引くて数多な謎話術で何度も泣かせて笑わせた。

「いるだけでいい」というのはたまに言われる。役割はそれぞれだったが、その役割も今はほぼない。私の長所と短所は相手を見ることだ。言葉の、表情の、作者の意図を読みすぎることだ。良くも悪くも人は人など見ていない。それに気付いた時は驚いた。楽にもなったし落胆もした。人1人歩ける孤の糸の上にそれぞれが立っている。分かれ道は繊維で、引きで見ればどことも誰とも寄り合えない1本の糸に人はいる。運良く選ばれた糸たちが機織られるだけ。逢うべき糸に出逢えることを人は仕合わせと呼ぶらしいです(みゆき談)

織られなくとも役に立ったことがあったのだろうか私にも。糸の方がずっとずっと価値のあるものに思える。

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