晩ごはん、裸で食う。
退屈な日々を自覚し続け生きていると、何が退屈でないのかすら分からなくなってくるとか。
皆さんにもそういう事があります。
皆さんにもそういう事が
あります。
実際本当に忘れてしまったわけではなく、それを仕舞っている所にかけた鍵がちょっとだけ錆びてダイヤルが合わないだけで、油を差すだけでいつでも開く。いつでも手の届く場所にある充実こそ瞬間を彩り、記憶を彩り、その日の終わりを鮮やかなものに出来る。
ということは、自ずと退屈を選択しているんだろうか。
実は選択しています。
してますよ
選
択
退屈という安心感に絶対的信頼を置いて、もたれ掛かるように人生を消費する。
それは間違った選択という訳ではなく、極端に表現すれば死に対する小さな抗い。
変化のない、分岐のない日というものは、1番リスクから自分を遠ざける要素のひとつ。
自分の金で飯を食うくらいの人間にもなれば、時たま死にたくないと思う程度はごく正常だ。退屈な日々を送っていると悩んでも仕方ない事がふと浮かんで来て、途方も無い答えも無い不安と向き合ってしまう。
大抵そんな事で悩んでいた時間が過ぎれば悩んでいた事を忘れているのに。
しかし極稀に、特に仕事を終えた後のクールタイムにそんな不安で悩んでいると、急に今日という日の平凡さに焦りを感じて平日にも関わらず友達に連絡を取ってご飯に誘ってみたり、久しく連絡を取っていなかった人にLINEを送ってみたりして、ただのつまらない一日では無かったと言えるだけの言い訳を作ろうと試みたりする。
結果として友達と外食も出来ずLINEに既読もつかないと、急に不幸の皮を被りたくなって、何も無いだけの普通の日よりも少し悪い日になってしまう。
それに抵抗する術は無いものか。
無いよな。
ある。
お前を彩る方法がある。
ありました。
最後の抵抗をする術が
た
し
ま
り お
ありました
↑ り
の
事
件
簿
さぁ!ようやくここでタイトルを回収しよう。
昨日の残り物を温めながら冷凍してある米をレンチンしている間に脱衣所へ。晩ごはんの支度をしながらシャワーを浴びる素振りで布一枚も全て脱ぐ。そしてそのままキッチンへ戻り簡単なおかずを作るなり、冷凍惣菜を解凍して皿へ盛るもよし。
配膳を終えたら姿勢を正して…
いただきます!!!
全裸の人間が、ご飯を食べている。
ただそれだけ。
そんなに異様な光景でもないが、それが日常ではないが故に記憶に色を付けられる食事という時間。
寝る前に思い返すだろう。
翌朝にも。
(あぁ、裸でご飯食べたな)
もう半年も前の事なのに、今でも覚えている。
それ程にあの一日を彩った出来事になっていた。いや、あの一日だけではない。その記憶が生きている今日まで、すなわち人生の出来事の一つに刻まれている。
どうやら、充実を得るために大きな何かをする必要はないらしい。ご飯を裸で食べるというお金も時間も無駄に消費する必要のない方法で、錆を剥がす潤滑油にするには充分ということかも知れない。
君の退屈な日の小さな彩り方も、教えてほしいかも。
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