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Vol.5「フランス貴族と白人特権(後編)」補足その3

「さよならパリジェンヌ」のVol.5「フランス貴族と白人特権(後編)」で取り上げた、カトリーヌ・ドヌーヴによる通称「ドヌーヴ書簡」に署名した理由と謝罪?文です

翻訳はフランス文学・思想、フェミニズムの研究者、中村彩さんにお願いしました

(以下全訳)

カトリーヌ・ドヌーヴ:「文章中には”ハラスメントはよいものだ”などという主張はありません。あったとしたら私は署名しなかったでしょう」

「性の自由」を守るために「しつこく言い寄る自由」を称賛する寄稿記事に署名してから一週間を経て、ドヌーヴは署名者の何人かとは距離を取りつつも、立場を表明することとなった。そしてこの文章によってショックを受けたかもしれない性暴力の被害者に謝罪した。

カトリーヌ・ドヌーヴは、金曜日に電話で我々のインタビューに答えた後、この手紙形式の文章を送ってくれた。我々が彼女に呼びかけたのは、彼女の言い分を聞き、署名した記事の全体に賛同しているのか、そして他の女性たちの発言にどう応じるのかを知りたかったから、つまり、彼女の立場を明確にしてもらいたかったからである。

(以下寄稿記事)

私はたしかに「私たちはしつこく言い寄る自由を擁護する…」と題された『ル・モンド』紙の声明に署名しました。この声明は多くの反応を引き起こしましたが、いくつか正確な説明を必要としています。

私は自由を愛しています。誰もが判定し、裁き、断罪する権利をもっていると感じている今の時代の風潮が、私は好きではありません。SNSでの簡単な告発が、制裁、辞職、時には、あるいはしばしば、メディアによるリンチを引き起こす時代です。30年前に他人のお尻を触ったことによって、正式な手続きも踏まずに、俳優をデジタル処理によって映画から削除するといったことも起こりうるし、ニューヨークの大組織のトップが辞職に追い込まれる、ということも起こりうるのです。私は何ひとつ容赦しませんが、こうした男性たちの罪について裁断を下そうとも思いません。なぜなら私にはその資格がないからです。その資格をもつ人はほとんどいないのです。

私は今日ではあまりに普通のこととなってしまった、人を群れになって追い詰めるいった現象が好きではありません。だからこそこの「豚を訴えろ」というハッシュタグに関しても、10月以来、留保し続けてきました。

私はうぶなお人よしではありませんし、こうしたふるまいをするのは女性よりも男性の方がずっと多いこともわかっています。しかしこのハッシュタグが告発を誘発するものでないとどうして言えるでしょうか。裏工作や汚い手口を使う人がいないと、誰が私に対して保証できるのでしょうか。無実の人が自殺することはないと、保証できるのでしょうか。私たちは「豚ども」にも「あばずれ」にもならず、ともに生きなければなりません。そしてこの「私たちはしつこく言い寄る自由を擁護する…」という文章は完全に正しいとまでは言わずとも、力強いものだと思ったということを、私は認めざるをえません。

私はこの声明に署名しました。しかし署名者のうち何人かが、個々にメディアに出て意見する権利を勝手に我が物とし、この文章の趣旨さえも歪めてしまっており(注1)、そのやり方に私は賛同しないということを強調しておくのは、今日、絶対的に必要なことのように思われます。「強姦されている最中にも快楽を覚えることがある」などとテレビで発言するのは、この犯罪の被害にあったことのあるすべての女性の顔に唾を吐くのよりもひどいことです。こうした発言は、相手を害するのに暴力を使ったりセクシュアリティを利用したりする習慣のある人たちに対して、被害者が快楽を覚えることもあるのだからそれはたいしたことではない、と思わせてしまうだけではありません。そもそも他の人を巻き込むマニフェストに署名するときには、自らを制し、自分の饒舌に他の人たちを巻き込まないようにするものです。それは卑劣な行為だからです。そしてあの文章中には、”ハラスメントはよいものだ”などという主張はありません。あったとしたら私は署名しなかったでしょう。

注1:リベラシオンの同日付の補足記事(« De la « liberté d’importuner » au droit de ne pas l’être »)によると「ネオリベラルの起業家ソフィー・ド・マントンはラジオ局RMCの番組「グランド・グール」にて「夫が私に少しもハラスメントをしてくれなかったら、私は彼と結婚していなかったかもしれない」と述べた。同日夜、元ポルノ俳優でラジオパーソナリティのブリジット・ラーエはテレビ局BFMの番組で「強姦されている最中にも快楽を覚えることはある」と述べた。その目の前にいたフェミニスト活動家で強姦の被害者でもあるカロリーヌ・ド・アースは唖然としていた。次にラジオ局フランス・アンテルでふざけたのはカトリーヌ・ミエである。地下鉄での痴漢について「もしそういうことがあっても、さっさと切り替えればいい、残りの人生それをトラウマとして生きることはない」、「私の隣で葉巻を吸う男だって、私の膝を触ってくる男と同じくらい不快に感じる」と述べた。」

私は17歳のときから俳優をやっています。私が明白に言うことができるのは、デリカシーに欠けるなどという言葉では言い足りないような状況を目撃したことはあるということ、卑怯にも自らの権力を乱用する映画監督がいることも他の女優たちから聞いて知っている、ということです。ただ、女性同業者たちに代わって話す、というのは私のすべきことではありません。トラウマになるような耐え難い状況を作るのはつねに、権力、上下関係、ある種の支配の形です。職を失う危険なしに、あるいは侮辱や下劣な嘲弄を被ることなしに、ノンと言うことができなくなるとき、そうした状況に閉じ込められてしまうのです。したがって私は、解決策は女の子だけではなく、男の子も教育することにあると思います。そして場合によっては企業のガイドラインにあると思います。ハラスメントが起きたらすぐに起訴することができるようなガイドラインです。私は司法の力を信じています。

最後に、私がこの文章に署名したのには、私にとって重要な別の理由があります。芸術における浄化の危険性です。私たちはプレイヤード版のサドを燃やすのでしょうか。レオナルド・ダ・ヴィンチは小児性愛の芸術家であるから、彼の絵画を抹消するのでしょうか。ゴーギャンを美術館から外すのでしょうか。エゴン・シーレのデッサンを破壊するのでしょうか。フィル・スペクターのCDを禁止するのでしょうか。この検閲の雰囲気を前にして私は声を失っています。私たちの社会の未来を心配しています。

私は時々、フェミニストでないと非難されることがあります。私が、シモーヌ・ド・ボーヴォワールが書いたマニフェスト「私は中絶手術を受けた」に、マルグリット・デュラスやフランソワーズ・サガンとともに署名した343人のあばずれのひとりであったことを、もう一度言わなければならないのでしょうか(注2)。当時、中絶は刑事訴追と禁固刑の対象でした。だからこそ私は、私を支持することが戦略的に得策だと考えたあらゆる種類の保守主義者、人種主義者、伝統主義者に言いたいのです。私はだまされませんよ、と。彼らは私の感謝の念も友情も得ることはありません。その逆です。私は自由な女性であり、そうあり続けます。私は『ル・モンド』に掲載されたこの寄稿記事によって攻撃されたと感じたかもしれない、耐え難い行為の被害者たちすべてに、親愛の意を表し、彼女たちに、彼女たちにのみ、お詫びを申し上げます。

心をこめて

カトリーヌ・ドヌーヴ

注2:人工妊娠中絶の合法化を求めて1971年4月5日に『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』に掲載された請願書、通称「あばずれ343人のマニフェスト」のこと。

(訳ここまで)

最後の1文は、誤植ではありません(笑)「大事なことなので2回言いました!」とドヌーヴが「彼女たちに、"のみ"!」と繰り返しています(コラムでは強調にしました)

まあ、この「謝罪文」も燃えたこと燃えたこと。

引き続き「さよならパリジェンヌ」をよろしくお願いします!

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