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平和と世界の感情の総量

平和でいられる今日が、どれほど幸せなことか。

だれもが大切な人がいて、
守りたい命があって、
信じていることや、考え、主張がある。
「平和」と呼ばれる今日が、いつなくなってもおかしくないことを実感した。

だけど、私は今日普通に出かける。
なんの装備もなく出かける。

日本人の警戒度が薄い、平和ボケと言われればそうなのかも知れないが、それでも毎日何事もないように変わらず、いい意味で鈍感で、無関心で?それゆえなのかは分からないが、一定の秩序を保ち社会が回っているのは、特別な国なのかもしれない。

私は今日、当たり前のように友達と会い、
当たり前のように明日、選挙に行くだろう。

いや、訂正する。
明日は、少しばかりの警戒心を持って、
選挙に行くだろう。
私は、特定の政党を応援している訳でもないし、
どこかの政党に加担するような考えでこれを書いているわけではない。


けれども、彼が亡くなった衝撃と悲しみは心に深く沈むものがある。


奥様は、どんな気持ちで彼を待っていたんだろう。
きっと、普通に応援を終えて、帰ってくることを何も疑わずに待っていただろう。

どんな理由であっても、
大切な人を突然失う悲しみは、大きい。

言論の自由や、テロや戦争を恐れずに”普通に”街に出かけられることは当たり前じゃないことを知った。

日本で、、、という衝撃となんだか喪失感がある。

ただ、一歩広げて考えてみると、
世界には何億もの人が暴力に怯え、警戒しながら暮らしている国がある。

なんて悍ましいことなんだろう。

今回の件で、日本人も暴力の惨さと非人道的なことを少し、自分に近いこととして知ったのではないだろうか。


だとすれば、少し想像力を持って、考えたい。
広い世界では、今もなお暴力に怯えて暮らしている人がいる。


それは、明らかに人類の手によって創り出されたものだ。


これが繰り返されることで、幸せになる人はいるのか。悲しみや憎悪の感情の総量を増やすよりも、喜びや幸せの感情の総量が溢れる世界のほうが、住みたいとは思わないのか。


世界の平和をつくる最前線で活動されている方が言っていた。

「平和とは、あいつの考えは分からないけど、
まぁ、いてもいいよね。」

と言えることだと。
考えや信条が違うのは当たり前。

だけど、その人にはその人の命があり
大切な人や、その人を大切に思う人がいる。

それを奪うのは許されない。

「彼が遺してくれたものを、、、」

なんて綺麗なことを言うつもりはないけれども、これにより、何か考えたことや思ったことがあるのであれば、暴力や非難以外の手段で自分の行動を見直すことも、必要だと思う。


命が安全に守られ、
言論の自由があり、
過去の積み重ねでつくられてきた平和を重ねていけるように。

何がダメで、何は自由なのか。
平和とは何なのか。考えたい。

どんな思いの人が、世界に増えたらより幸せなんだろうか。そんな単純なことを改めて問いたい。

心よりのご冥福をお祈りいたします。

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