うまく行かない人生を生きていく

また今年もツバメが我が家にやってきた。

我が家は居心地がいいのだろうか、同じツバメか、子孫か、評判を聞いた別のツバメかが、とにかく何組もやってくる。巣作りの場所や、つがいになる相手を争ってケンカし、やがて、それぞれが場所を決め巣を作る。中には既存の巣(空き家)を利用して住むものもいる。やがて卵を産み、雛がかえると卵の殻が落ちていたりする。雛にエサを運ぶ親たち、賑やかに口を開ける子供たち。どんどん大きくなり巣からはみ出すほどになり、時期が来れば巣から飛び立つ。近くの電線で止まって大移動の時がくるまでしばらく近隣でいる。もうワンクール子育てを繰り返す親鳥もいるらしい。こんなにツバメの行動を見られる環境に住んでいる。

望んで、というわけではなく流れ流されてここにたどり着き、他に移る勇気や気概がないせいである。居心地が格別いいわけではない。ただ同じ環境にあっても同居の家族はさほど嫌がっているようには見えない。近所の人もそうである。何代にわたって住み続け、養子を取ってまで家業を続け、この不便な山の中で最高のパフォーマンスを繰り出している人もいる。そうなると要は自分の気持ちなんだな。という結論に至るのだ。

だから、今の私の心持ちでは場所を変えても変わらないんだろうという気がしてならない。

もう46歳なのだが、高校を出てからの30年近く無為に過ごしてきた気がする。無為と行っても大学にも行き、就職や結婚(のち死別)もしたが、いつも現状に不満や不安があった。いつもここではないどこかに「幸せ」あると思えてならなかった。この感覚は何なのかずっとわからずにいたのだが、結局自分を認められていないのだな、と理解した。自分を高く見積り、それに届いていないからいつだって不満。

私の義母(亡夫の母)は息子を亡くし、それまでにも色々理不尽な目にも遭ってきたが、不満をめったに出さない。いつもフラットでいる。農業に従事し、派手に遊んだり着飾ったりしなくとも、周りがどうであろうともいつも変わらない。にこやかに笑みを浮かべ屈託なくよく喋る。私が悶々としていても「大丈夫」と励ましてくれる。

日々の営みに没頭する。頭の中に雑念が入らないくらいに。燕や義母のようにそれが1番大事で、私は没頭できていないのかもしれない。部屋の中でじっとしているとろくでもない考えしか浮かばない。自分をいたぶるだけなのだ。まずは日々の営みをもう少し大事にすることからはじめていきたい。

46歳、まだ間に合うだろうか。




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