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root 6 PENGUIN RACING ①

マウンテンライダース監督の元木さんのご厚意でライダースパークタイチの営業時間前に練習させてもらえる事になり、マシンを置く場所や運ぶトランスポーターが無いクラブ員が土曜日の夜に私のアパートに集まってきて、マシンの整備をしてそのまま泊ったり、一度帰って朝早く集合したり、自宅からトランスポーターで参加したりなど日曜日の早朝練習をするのがモトクロスクラブ「ペンギンレーシング」の常になった。

当時、私の住んでいたアパートは2階建てで下がガレージで上が住居、それが5~6戸横につながった不思議な造りで、定かではないがその昔はモーテルだったようだ。ガレージにTOYOTAスポーツ800があったり、結構、面白い人たちが住んでいた。クラブ員やタイチのスタッフも住んでいたのでペンギン村と呼ばれていた。

私の一階のガレージにはクラブ員のモトクロッサーが詰め込まれ、もう一人のクラブ員が住んでいた下のガレージは整備室になっていて、週末は結構騒がしい状況だったが苦情も来ず、楽しいモトクロス生活だった。

早朝の2時間位はクラブ員だけなので自由にコースが使え、何度も何度も不得手やできない事の練習ができ、クラブ員はレベルアップしていった。時々、マウンテンライダースとの合同練習もできるのでレベルは違うが吸収でき、レベルアップの大きな要因だった。

当然ながらマウンテンライダースの選手、彼らはプロを目指しているので仲良くしてくれたり、一緒に走ってくれても教えてはくれない。

レースに勝ってなんぼ!の世界の厳しさは見ているだけで伝わってきた。

元々、走ることが楽しい!で始まったクラブなので、モトクロスをやりたいけれど環境が整わない高校生や中学生の女の子など、できる範囲でサポートしてきたが、速くなったクラブ員が増えたり、個人でレースに参加していたライダーが入ってきたりするとレースに参加する様になった。

その頃のモトクロスのレースはMFJ公認の近畿選手権とライダーパークタイチ独自のレースがあった。どちらも年間10戦くらいあったように記憶する。

ライダーパークタイチのレースはライセンスの必要の無いレースでレディースやキッズなどの80ccやモトクロッサーのように専用マシンではなく、市販車のオフロードマシンでレースを開催していた。女子のクラブ員や走ることを楽しみたいクラブ員は参加していたが、その他のクラブ員はコース内でイエローフラッグ(転倒者を知らせ、危険回避、追い越し禁止)を振る旗振りや他のレース運営の手伝いをしていた。

近畿モトクロス選手権はライセンスが必要なので16歳以上で運転免許を持っていないと参加できなかった。当時のクラス分けはノービス、ジュニア、国際B級、国際A級で地方選手権のレースで一定のポイントを獲得すると国際B級までは昇格でき、国際A級には全国で開催されていた全日本モトクロス選手権でポイント獲得上位数名しかなれなかった。

まずは近畿モトクロス選手権にノービスクラスの参加から始まった。

「PENGUIN RACING」クラブから「PENGUIN RACING」チームに変わっていった。





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