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あこがれのTVディナー

特に欲しいものがあるわけでもないのに、毎日のようにコンビニへ立ち寄ってしまう。むしろ、目的があってコンビニへ立ち寄ったことなどあるのだろうか。それは生活の中のルーティンのようになっていて、スナック菓子やチルド、冷凍の惣菜、インスタントのカップ麺など、新しいものが出ていたら大体すぐに購入する。コンビニフードは入れ替わりが非常に激しく、新発売の商品でこれはいいなと思ったものが翌日からはもう見かけなくなっていたりする。中にはプロトタイプ的に様子を見るような形で限定的に並べられている商品もあったりして、油断ができない。仕事帰りの疲弊した体だとレンジで温めるだけでいいという手軽さだけでもありがたいのに、最近のものは味もちゃんとおいしくてすごい。穂村弘に「金ならもってるんだ金なら真夜中に裸で入るセブンイレブン」という短歌があるが、コンビニというのは無秩序にどんな自分でも受容してくれる空間であるような気もする。

少し前に同時進行で読んでいた本の中に、たまたま同じ食べ物が登場することがあった。一つはアンディ・ウィアーの「プロジェクト・ヘイル・メアリー」で、もう一つはルシア・ベルリンの「すべての月、すべての年」という短編集の中に入っている「視点」という作品なのだが、どちらの作品でも主人公が「リーン・キュイジーヌ」というブランドの冷凍食品を食しているのである。調べてみると「リーン・キュイジーヌ」はネスレ社が販売している低カロリー、低脂肪を謳ったメインディッシュ、ワンプレートタイプの冷凍食品であるらしい。アメリカの伝統的なディナー料理や、エスニックな雰囲気のものまであったり、提供されている商品は多岐にわたり、数年前にはヴィーガン用のメニューも提供されている。「リーン・キュイジーヌ」が立ち上げられたのは1980年代初頭のことで「You'll love the way it looks on you」というキャッチコピーと共に、手軽で、味もよく、そしてダイエットに向いているということで需要が供給を上回るほどのヒットを起こしたらしい。

「プロジェクト・ヘイル・メアリー」では、人類の存続のために宇宙へ旅立つ主人公が、過去に独身のアパートで食べていたものとして登場する。

「ぼくのまえにあるコーヒーテーブルにはレンジで解凍したリーンクイジーンの冷凍食品が置いてある。スパゲティだ。まだ熱が均一にいきわたってなくて、ほとんど凍ったままのパスタの隣に舌が溶けるようなプラズマがあるような状態だ。」

「プロジェクト・ヘイル・メアリー(上)」

また「独身男のアパートメントで独身男が独身男用の食事をとっている」と続けられていることから「リーン・キュイジーヌ」が「独身男用の食事」として描かれていることがわかるが、記憶障害だった主人公のキャラクターを読者に少しずつ造形させるものとして「リーン・キュイジーヌ」が役立っているし、何より後に登場する長い宇宙の旅でロボットアームから提供される「歯磨き粉のチューブ」のような宇宙食と同じで、地球でも宇宙船の中でも食事に合理性や手早さを求める感じが、物語を立体的にする一つの装置になっている。

一方で、ルシア・ベルリンの「視点」では孤独でつつましい生活を送る、医院事務の女がディナーで食べるものとして「リーン・キュイジーヌ」が登場する。

「ヘンリエッタは優雅なカトラリーで食事をし、脚つきのグラスでカリストガ・ワインを飲む。木のボウルにサラダ、皿の上にはリーン・キュイジーヌ。食べながら、彼女は新聞の『ディス・ワールド』の欄を読む。どの記事も同じ人物が一人称で書いたみたいに見える。」

「視点」

この「視点」という作品は作者の視点からヘンリエッタという人物の話が描かれる風変わりな短編で、作中で「たいていの作家は、小道具や舞台を自分の実人生から拾ってくる。たとえばわがヘンリエッタは毎晩のつつましい食事をするのに、わざわざブルーのランチョンマットを敷き、イタリア製の重厚で美しいステンレスのカトラリーを使う」と書かれていることからも、ヘンリエッタという主体と、作者という客体の視点が入り混ざって描かれている。続けて「クーポン券でペーパータオルを買うような女には不釣り合いな、おかしなディテールだが、読者はそこに興味を引かれる。すくなくとも、わたしの目論見では」と綴っていて、まさに冷凍食品をわざわざ優雅なカトラリーで食べるヘンリエッタの姿というのは、孤独でつつましいながらも、それに対して正気を保とうとするような、あるいは誰にも傷つけることのできない、ヘンリエッタ自身の矜持のようなものを感じる。また作者がそれについて「話の中でそれについて説明することはしないつもり」としていて、結果として作者の視点でそれが語られているので一方では説明されているのだが、このディテールにこそルシア・ベルリンが持つ独特なまなざしが表れているように思う。

アメリカには1950年代から存在する「TVディナー」という定番の冷凍食品があって「リーン・キュジーヌ」はその流れから生まれた存在であると言えるだろう。「TVディナー」はアルミでできたワンプレートに肉や野菜、穀物などがセットになった冷凍食品で、テレビを見ている間に作れるということから、テレビが普及した50年代にそのブームと共に人気商品となったものらしい。「プロジェクト・ヘイル・メアリー」の主人公が食べる「リーン・キュイジーヌ」においても、テレビでNASAの番組を見ながら食べていることから、それらはある種セットのようになっていて、日本人の自分からしたら想像しにくいが光景としてはベタなものなのかもしれない。

「TVディナー」で印象的なのはジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」で主人公ウィリーの食事シーンである。ハンガリー出身で、ニューヨークへ出てきてギャンブラーとして生活しているウィリーの元に、従姉妹のエヴァが10日間居候する話なのだが、出会ったばかりのエヴァの目の前でウィリーはこれ見よがしに「TVディナー」を食べ始めるのだ。ウィリーがおもむろにテーブルの上に置いたアルミのトレーに包まれたそれをどこか訝しげに見つめながら、エヴァは「肉に見えない」と呟く。それに対してウィリーは「ムカつかせるな。これがアメリカの食事だ。肉とポテト、野菜、デザート。皿洗いも必要ない」と返す。エヴァや叔母との会話でもハンガリー語ではなく英語を求めたりするウィリーは、わかりやすくアメリカにかぶれているのだ。そして、そのアメリカの象徴として「TVディナー」が印象的に登場する。合理的で、手間もかからず、ジャンクで無機質なワンプレートは、確かにアメリカ的な大味さがむしろ魅力的に感じられる。後に叔母の家で出される「グラーシュ(ハンガリーのスープ料理)」と「チキン・パプリカ」との対比にもなっていて、そちらの方が明らかに美味しそうなのだが、やはりアメリカ的な「TVディナー」には”ストレンジャー”であるが故の独特な魅力を感じざるを得ないのだ。

「TVディナー」は日本でも70年代に「テレビディナー」として発売されたことがあったらしいが、定着はしなかったそうで、確かに現在でもあの「TVディナー」的なワンプレートはスーパーなどでも見かけたことがない。ワンプレートで、主菜や副菜などがすべて採れるような冷凍食品はよく見かけるが、日本製のそれらは見た目や味も完成度高く作られていて「TVディナー」に感じるような良い意味での大味さというか粗雑さのようなものはない。日本で言うと、一番近いのはコンビニのスパゲティや、弁当なのかもしれない。今は本格志向な商品も多いが、手軽さとジャンクさ、食べ終わったら容器含めすべて捨てられると言う点でも「TVディナー」的なところがある。「ストレンジャー・ザン・パラダイス」ではウィリーが「TVディナー」をプラスチックと思われる安っぽいカトラリーで食しているのも良い。あくまで食べ終わったらすべて捨てられるということが大事なのだ。持続可能を目指す今の世の中では言いづらいが、コンビニのスパゲティをあの心もとないプラスチックのフォークで巻き取って食べるという行為には、独特な背徳感というか愉悦があると、私は思う。フォークが色づくくらいオイリーなそれを見ると、明らかによくないものを食べているという感じがして、その今にも折れてしまいそうな白いプラスチックのフォークは、まるで自分そのものなのではないかという気すらしてくる。だからこそ「視点」のヘンリエッタがわざわざ優雅なカトラリーでそれらを食べるという行為には、独特な機微があるのだ。

期待やあこがれだけが膨れ上がって、いざ食べてみたらそうでもない、ということが私には多々ある。「TVディナー」もきっといざ口にしてみたら、こんなものかとがっかりすることが私には目に見えている。けれど、レストランで提供される牛ひき肉100%のジューシーなハンバーグよりも、レンジで性急に温められたあまり美味しそうには見えない茶色い塊に、私はどうしても惹かれてしまう。それはきっと何を食べても基本的に美味しいこの国で「美味しい」よりも「イケなくもない」という方が、私にとっては遠いからだ。

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