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ポークライスと枯葉

久々に友人に会ったりすると「最近、何しているの?」と問われ、自分もなんの気なしにそんなことを問うたりするのだが、30歳を目前にした時分のそれは、だいたい結婚や仕事といったニュアンスを含んでいて、正直に「どこのコンビニの枝豆がうまいか、食べ比べている」や「好きなアイドルの曲のアカペラを抜き出して自分で演奏してる」などと発言することが憚られることも存じている。(ちなみに一番うまいコンビニの枝豆はセブンイレブンである。)

だけど、唯一その話題に憚りなく参加できるものがあるとすれば、料理をよくするようになったことだ。元々、ラジオを聞きながら酒を飲むのが好きだったため、軽いアテのようなものを作ってはいたが、ここ数年で貪るように読んだ稲田俊輔や三浦哲哉の著書に影響を受け、自然とキッチンへ立つ時間が多くなった。

最初は出来たものを食べて満足していただけだったのが、次第に料理していることそのものが楽しくなってきてしまい、今はできるだけ手が込んでいて、時間のかかるものを作りたい。なおかつ、出来る限りオーセンティックで、これまで自分が食べたことのないようなもの。例えば時短レシピとして肉を柔らかくするためにオレンジジュースで煮込むのはNGだが、メキシコのカルニータスのように現地の歴史あるレシピであればOKみたいな、よくわからない判断基準の下、誰に頼まれたわけでもなく原理主義的な自炊を行っている。しかし、のめり込みすぎたあまり、2時間ほど残業して疲れて帰った後にひたすら牛すじを煮てボロネーゼソースの仕込みをしたり、マサ粉を練ってトルティーヤを作ったりしていると、俺はいったいなんのためにこんな時間をかけて料理をしているのだ、という気持ちになってくる。

少し前に星野源やフワちゃんからラジオで語られたオードリーの春日さん宅で「長楽」のポークライスを振る舞った話が好きで、繰り返し何度も聴いている。そもそも「長楽」の話が大好きだったため、東京ドームライブの時に若林さんへポークライスを振る舞ったのはブチ上がる瞬間だったが、その後、星野源にそれを振る舞うためにかっぱ橋で小ぶりな中華鍋を買い、ポークライスに見合う器を買い、何回も予行練習を行ったという春日さんの姿は、いい意味でどこか信じられないというか、むつみ荘に住んでいた頃では想像できなかった。昨日のラジオでも改めて若林さんへポークライスと肉炒めが振る舞われたが、それも本当に良かった。若林さんが春日さんの作った料理に最大級の賛辞を送り、それをまっすぐに受け取る春日さんは、あまり見ることのできないオードリーで、それを外からまじまじと見ようとすることが無粋だとは思いつつ、うつくしい瞬間だと思った。

去年見たカウリスマキの「枯葉」でも一番グッときたのは、ヒロインのアンサがホラッパを自宅でのディナーに招くシーンだった。何が良かったかというとアンサがディナーのためのカトラリーを揃え、食器を買い足し、食前酒を用意するところだ。質素で孤独な暮らしをしていたアンサが、誰かのために食器を買い足すということ。それも小洒落た雑貨屋などではなく、どこにでもありそうなスーパーなのが良い。お金のない二人は良いレストランでディナーできるわけもなく、だけど最大限身なりを整え、自宅の机に花を飾り、料理を囲む。「枯葉」ではウクライナ戦争のニュースがしきりに流れることからも、それは花森安治的な態度のようにもとれるし、だけど「過去のない男」のディナーシーンにもあるような、カウリスマキらしい生活に対する矜持のようなものなのだと思う。なんにせよ、誰かが誰かのために料理を振る舞うということに、自分はやたらグッときてしまうところがある。

自分の場合、誰かに振る舞うわけでもなく、ましてや原理主義的な自炊を行うと食費がかなりかかるため、生活のそれというよりは完全に趣味としてやっているところがある。ベタな話だけど、無になれるというか、ひたすら手を動かして何かゴールに向かっているということが今の自分にとって心地いいのだと思う。あとはちゃんとおいしいものが出来た時、自分はこれを作ることができたという小さな自信になる。いつの間にか失ってしまった生活のあらゆる手つきを取り戻すように、昨日も小鍋に入れた豚肉を2時間ほどにらみつけながらひたすら煮込んでいた。それは誰でもない、自分のためなのである。

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