イメージが私達を行動させる

アカデミー賞

映画は、人類が技術と歴史を重ね付けてきたことによって、エンターテインメント性と芸術性を併せ持った、素晴らしいコンテンツだ。ましてやアメリカでは、それが一大産業になったことによって、アメリカの慣習や文化が世界から憧れられるひとつの指標になり、映画以外での経済的な影響があったはずだ。その裏で、その映画で描かれてきた人や世界には、白人しかいない世界が描かれ続けてきて、有色人種はその世界を文字通り彩るためのモブでしか無い。大体映画やドラマでは、有色人種に対するイメージが伴っていて、誰もが想像できるような、「あるある」な描かれ方をする。

こういうイメージから外れると、人はどう反応するんだろうか。

ここには、人間のなかで型にはめた想像しかできなくなった世界が作り上げられた経緯があるんだろうと想像する。映画を作る最初の人が白人だったことによって、主人公は自分の写し鏡として、白人。それを見た人はそれが世界の理かのように受け取って、また自分の世界を組み立てる。そこには白人しかいない。こういう歴史が5年でも続けば、人間は、そういう箱を持ってしまう。
私達人間の多くは今、何かを考えるために箱が必要だ。その箱というのは、先人たちの行動や評価のされ方を参照して、「どう考えることが正しいか」の方向性を持つために必要になる。人は正しくあろうとするから。これだけの歴史上の出来事がアーカイブされている状況で、そもそもそんな「正しさ」なんてものは不変なものではなく、常に揺れ動いていることがわかるのにも関わらずだ。

だから、その箱に入らないような出来事が起きたとき、人はおそらく狼狽えてしまう。そして、大抵はそのことについて考えず、放棄するだろう。この積み重ねが、静かな差別につながっている。

今回のアカデミー賞でのロバート・ダウニー・Jrの行動は、こういうところから来ているんだと思う。

自分と同じように子役としてやっていた有色人種の俳優が、自分よりも先にオスカーを受賞して悔しかったのかもしれない。でも、有色人種からオスカー像を手渡される『イメージ』が彼の中にきっとなかったんだろう。だから、反応できなかった。
イメージは私達を行動させる。想像力は常にあらゆる可能性に開かれていなければならない。

の、ではないだろうか?