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スモールスタートの話

雪ってテンション上がっちゃうよなー。
音は吸収するけど光は反射するから、
夜になるとさらに静かで、やんわり明るくて、
お散歩したくなっちゃうよなー。
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■多様性という言葉の解釈

しっかりコントロールしないと危険だな、
と感じています。
油断するとどんどんその本質から弾かれていってしまう気がする。
そんな感覚は以前からありました。
が、しかしすでに私はだいぶ外側に弾かれていたのか、
多様性の受容に向けて変わっていく社会の動向を、
どういう心持ちで見つめたらいいのか
分からなくなっていました。

考えるきっかけを与えてくれたのは、
深夜にたまたま見かけた地上波のドラマでした。


■判断基準は、”隣にいる大切な人が当事者だったら”

たどり着いた結論の一つがこれです。
今日、「多様性」という言葉が用いられる場面では、
主に何かしらにおいてマイノリティの方が主語となり語られると思います。
メディアやSNSでは様々な討論やケーススタディが繰り広げられ、各々の主観によってジャッジされ、
スワイプされていきます。

上記のような情報の類は、
中心にある本質から何層も離れたものであるように感じます。
表面層にあるから目に留まりやすいけど、
最後にはもやもやだけが残る。
外側を覆っているケーススタディたちを
愚直に一つ一つ仕分けたい気持ちもありますが、
そうしているとすぐに疲れちゃうんです。
その層のいっちばん外側には、
自分はマイノリティだと嘘までついて欲を満たそうとするどうしようもない人もいるようだし。
もうやめて~。

そしてこれは余談ですが、
多様性という言葉がなんとなく、
(言葉を選ばずにいうと)免罪符やタグ付けのように使用されている感覚があります。
本来はディスアドバンテージであることを個性として昇華させ、誰かを勇気づけようとする姿はとても素晴らしいのですが、そこから少しだけ逸れたようなパターンであったり。
あるいは過剰に認めさせようとするあまり、
マジョリティに対して攻撃的になってしまっているパターン、これは本末転倒です。
受け入れあっていこうよ〜。

そんなこんなで分からなくなっちゃってたんですけど。
おっさんが私にヒントをくれました。

当事者ではない誰かが、
別の知らない誰かのことについてしている討論より、
自分の家族・友人・パートナーがマイノリティの当事者だったら自分はどう振舞うのか。
どう向き合うのか。
これを考えることが、
自分にとっては一番内側からの
アプローチになるなと思いました。
おっさんが新しい概念を認知してアップデートしていく様は、とってもじんわり刺さってしまったなー。

どこかのインタビューでMr.Childrenの桜井さんが、
「嫌いな言葉:”難しい問題だよね”」
という回答をしていました。
その真意までは語っていなかったけれど、
ある種、思考・解釈・結論付けの放棄
のようだからかなと勝手に思っていまして。
「いろんな人がいるよね」
「人それぞれだよね」
で話を終わらせてしまう人に
そんなような雰囲気を感じて、
残念な気持ちになることがあります。
確かにそうなんだけど、そうなんだけどーーー!
それは結論にたどり着いたのではなくて、
難解と分かっていた本の読了を諦めて栞も挟まずに閉じてるだけーーー!

何もかもが人それぞれであることは大前提です。
1(自分)対 無限の感性 
の戦いは過酷すぎます。
まずは無理せず、
1 対 1(大切な誰か)から始めたいな、
というお話でした。
案外、それだけで一生かかるかもしれないよ。

■おまけ①

多様性に関して、
認知と理解は別のものだと思っています。
前者は、存在そのものを知って認めること。
その存在のための居場所を、
自分の生きる世界の中に確保すること。
後者は、他者と共有やすり合わせを繰り返して、
限りなく同じものに近い感覚・認識を自分の心に留めること。
まずは認知することが大切で、
理解については個々の環境や心の土壌、
人との接し方も関係するため、
強制されるものではないと思います。
無理しなくていい。
理解した気になってしまうこと、
それに気づけないことだけは避けたい。

■おまけ②

長らく地上波の番組を見ることを避けていましたが、
宮藤官九郎×阿部サダヲのタッグは
どうやっても見過ごせませんでした。
不適切にもほどがある、
さすがにめっちゃおもろい。

すべては受け手次第のため超厄介な各ハラスメントの概念のうち、この度セクハラに関するガイドラインが制定されました。
”自分の娘/息子が嫌がることはしない”

さすがすぎ。
動物の本能と娘への愛情の間で揺れ動くサダヲ、
さすがすぎ。
最後まで観るぞー。


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