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田辺三菱製薬史料館見学メモ


大阪市中央区道修町(どしょうまち)にある田辺三菱製薬史料館に行ってきました。

こちらは事前予約制で、予約の際に案内の有無を選べます。
私はがっつり色々聞くのが好きなので「有」にしました。

写真撮影は可、但しSNS等への投稿は不可
ですのでこの記事にも写真は掲載していません。

見学日は、田辺三菱製薬さんの営業日のみ。つまり、平日
(※すべての平日ではなく、田辺三菱製薬さんがお休みの日は休館)
土日祝は行けないので社会人には若干ハードル高い。
ちなみに、ここの近くの「旧小西家住宅史料館(重要文化財)」は、事前予約制な上に平日の火・金のみ(2024年6月時点情報)で、更にハードル高い。
薬のまち道修町をがっつり楽しむなら、火曜か金曜事前予約をして、他のスポット(タケダさんが独立運営させてる杏雨書屋は平日10~16時なので時間にも注意!)も併せていくのをお勧めします。

尚、徒歩圏内で個人的なおすすめ飲食店は、田辺三菱製薬資料館から近い順で蕎麦人秋、モトコーヒー、五感、オクシモロン、北浜レトロ、グルニエ、ザボトルオーブン等です。定休日や営業時間は要注意の要チェックですよ。あと現金払いのみのとこもわりとあるぞ。あとタイミングをミスるとすごい並ぶから気を付けて。

道修町について

道修町(どしょうまち)と読む。
ごめん、今までどうしゅうまちって読んでた。
少彦名神社があるし、ビルを見上げれば見知った製薬会社の名前がズラリと並んでいるので、なんか医薬の聖地的なところなのかな程度の認識でした。

案内の方の解説によりますと、
徳川吉宗が大坂に立ち寄った際に、当地の薬にえらい助けられたそうで。
それで、長崎に届く西洋の薬はすべて道修町に送って、価格を決めて全国に売りさばく権利を与えたらしいです。
ははぁ、なるほど、それで一強エリアだったわけか。

少彦名命(すくなひこなのみこと)って、私の雑な記憶によると、因幡の白兎が毛皮ズル剥けで塩水塗って染みて泣いてるときに薬を塗ってあげた神様だったはず……Wiki見ると、なんかいろいろ違うけど。

少彦名神社と書きつつ、神農さんとも書いていて、いやどっちやねん!どっちかがニックネームなん?と思ってたんですが、どっちもいらっしゃったわ。
案内の方の説明によると「神農さんでは神社が作れないから京都から少彦名を連れてきた」と。

『神のご加護によって職務を正しく遂行しようと安永9(1780)年京都の五條天神より少彦名命を仲間の寄合所にお招きし以前よりお祀りしていた炎帝神農とともにお祀りしたのが始まりです』

ふむ、神社として祀るには何かルールがあったようですね。調べてみたいけど、奥が深そうだな?
「お招き」というのは分祀ってやつだろうか。実家に伊勢神宮の鏡と伏見稲荷大社の熊鷹大明神さんがいらっしゃるのは分祀って聞いたが……分祀のルールってどうなってるんだ???これも気になるな…神道ジャンルか?沼じゃん!

少し脱線しました。
少彦名神社といえば張子の虎ですが、案内の方曰く「年々値上がりしてるから買うなら早い方がいい」とのこと。職人さんの後継者問題ですね……
「今日が最安値」ってやつです。

史料館には何が展示されている?

入ってすぐ左手には大きな提灯軒下看板「たなべや薬」
右手にはズラリと並ぶ生薬の瓶。
それは1678年(延宝6年)に初代田邊屋五兵衞が売り出した「たなべや薬」の材料で、その隣には「売薬営業鑑札出願書」(明治15年)のレプリカも飾られていました。
明治時代に入り、政府は今までフリーダムだったお薬分野に「法制度」の整備を開始しました。明治6年に「薬剤取締之法」が制定され、薬になにがどれだけ入ってるかしっかり明示しなさいと。明治なだけに。…すみません。
薬事法関係はまだ法律擬人化でもきちんと調べていないのですが、どうやら当時の人がそうとう頑張ったのか、えらい立派に作られたらしく、明治時代に作られた基礎が今の薬事法にもしっかり残っているとのことです。
ほぅほぅ、そんなこと聞かされたらがっつり調べたくなってしまいますねぇ~~~~!医師法分野は、医師法が私の推し法である刑法の従弟みたいな関係※なので多少経緯を調べたことはありますが薬事法はチラ見したことしかないので、今度手を出してみようと思います(※旧刑法には医師法の規定が定められていました。現行刑法になった際に分離)。

さて、そんな新制度が始まったとき、田辺製薬は初代がしっかりとレシピを記録していたので、慌てずスムーズに届出ができたとか。

そのレシピですが、「たなべや薬」は、島津義弘が初代に助けられた御礼として、刀傷などに効く薬のレシピを伝授したのだそうで。
出血を抑える効果、炎症を抑える効果等が非常に高かったらしく、妊産褥婦に用いると効果てきめんだったとか。
当時は薬の広告はなかったので、ひたすらクチコミで薬の効能の高さが広まり、皇室にまでその噂は届いて「勅許看板」もいただいたと。

入って右手に生薬の瓶、出願書と並んだ隣に勅許看板現物がありました。
勅許看板には勅許の証、菊花紋章五七桐紋がズン!
二つ並んでるのってわりと珍しい。いやあんまり知らんけど(旧皇室典範を少し調べたときに思ったけどあの界隈の史料沼はヤバい)。

「明治でこれは保管状態がすごくいいですね(さすがは大企業!」と言ったら、めっちゃぼろかったからめっちゃ修復したとのこと。
たしかによく見ると真ん中にも修復の跡が。
全国で現存する勅許看板は、羊羹でおなじみの「とらや」さんと田辺三菱製薬だけらしい。さすがの「とらや」。皇室関係のイベント行ったときにとらやの羊羹売ってたわ(買った)。
店先に勅許看板を置くだけで、宣伝効果は最の強!
通りすがりの人も店に吸い込まれて買って行ったとか。

どんな看板か見てみたい?でも写真掲載不可なので、ネットで見つけた写真付き記事を紹介するぜ!「関西企業ヒストリア」

https://www.opmia.or.jp/sys/wp-content/uploads/2023/06/202307_historia.pdf


「初代田辺屋五兵衛」

さっきから「初代」って略してますが、田邊屋五兵衞は16代ほどいたから初代には必ず名前の前に付記するようにしているらしいです(ごめん16って数字はうろ覚え……)。
わかるわかる、うちもなんか同じ名前が家系図にあった気がするよ。
などと頷きながら、入って左手の軒下看板を過ぎて、「当時の店先のレプリカ(実物大?)」を見ていると、銭を並べて数えるっぽいアイテムが。あれなんかこれ、うちの蔵にあった謎の物体じゃん。正体がわかったぞ!(しかし撮影するの忘れて名称がわからなくなった)
ごっついデカい火鉢が置かれているな~と思っていたら「藤沢」の文字!
なんで藤沢?!と思ってたら、
藤沢薬品工業と山之内製薬が合併した際に、「展示するといいよ」とくれたそうで。「絶対ほかにももっと色々持ってるのにこれしかくれなかったんですよね~」なんて、案内の方が言うから面白くて笑っちゃった。

「アステラスは史料館作らないんですかね?」と尋ねると、合併した会社は史料館をつくるのが難しいと。
(あとは大阪大空襲ね。たくさんの史料が燃えたから……)
あぁ……合併ってそういうところにも影響が出るんだなぁと。
いや待って、田辺三菱製薬さん、あなたも相当合併繰り返してない?!と思ったら、「うちも合併してますけど、さすがにこれだけ歴史的価値があると無視できなかったのかもしれませんね」とのフォロー。

田辺製薬の歴史的価値……
そう、初代が開いたのは日本初の薬屋!最初の場所は道修町ではなく土佐堀だったけど。
その10年前にドイツのメルク社が設立されたので、10年の遅れかと思いきや、当時の日本は生薬のみ。化学合成に着手したのは明治時代からなので200年ほど遅れをとり、そして、未だに遅れを取り戻せていない……
新型コロナ関連で確かに明らかな差が出ちゃいましたよな……塩野義製薬のワクチン、いけるかどうかハラハラと見守ってたんですが。

店先レプリカ(実物大?)にはスクリーンがあり、約5分ほどの紹介動画を見ました。
鎖国していた日本は、ずっと和薬(生薬)一本で来たけど、長崎の出島から洋薬(化学合成薬)が入ってきて、さぁどうする?!というときに、五兵衛は「これからは洋薬の時代や!!!」と決断した模様。
戦争が始まって薬が不足し始めると、「医薬品は人命にかかわるものや!」と売り惜しみ禁止の指示を出したり、なかなかのご活躍。どこまで初代でどこから何代目か分からなくなったけど、五兵衛すごい。
そして大坂だから当たり前なんだけど、動画のセリフがめっちゃ大阪弁(笑)。

ちなみに、当時の店全体図ミニチュアで脇に飾ってありました。
(その傍には実際に使われていた薬を混ぜるでっかいお鉢の現物も)
流石にすべて実物大再現は予算的に無理だったと。そりゃそうだよな。
間口は20。当時は間口の広さで課税されてたから、奥行きが深~い。
手前に店舗兼自宅、奥に倉庫が複数並ぶ配置。

五兵衛(何代目や?)は、サルチル酸がワインの保存に効くというのを知って「日本酒にもいけるんちゃう?」とドイツのハイデン社のサルチル酸を輸入して大ヒット!それまでは夏が来たら腐ってた日本酒が保存可能になったぞ!ということで蔵元に飛ぶように売れたとか。
それまでは「五」を丸で囲ったマークだったのに(店先レプリカにも大きく丸五を書いた木箱が置かれていた。看板代わりに店先に屋号を書いた木箱を置くことで「営業中」の表示になっていたらしい)、サルチル酸売り出すときはかっこよく日の出と鶴のマークを導入!
他の薬屋さんもこぞって鯉とか色んな動物をマークに採用して、「動物園作れるやん」状態に。

店先レプリカの反対側は道修町の歴史が書かれたパネル展示がありました。
そのエリアを過ぎると、壁に田辺製薬の合併の歴史が………!
案内の方もがっつり合併の歴史に巻き込まれたようで……うっ、お疲れ様です。社名変わるだけでもものすごくお金がかかるんですよね……それは法律擬人化でも頷きすぎて首がもげる。

銀行の合併は大好きな銀行擬人化描きさんのおかげで把握できましたが、製薬会社は未だにどっちがどれのいつでしたっけ?とよくわからなくなる。
誰か早く製薬会社擬人化しろよぉぉおお!待ってる!!!
(薬や元素の擬人化はたくさんあるけど製薬会社の擬人化ってあんまりなくない?いや描かないぞ私は。法律と細胞で手一杯だ!!!!!)
一気にガラスケースに入った「展示コーナー」で神農さんの絵や、看板、ポスター、薬などがずらり。当時の調薬で使われたレンズ付きの微量天秤や、戦前戦後の医家向け医薬品などもありました。
明治村の北里研究所にも無いやつ~~~~!!!!!!!!(表面では冷静を保ちつつ興奮しながら撮影)

まったくもって初見且つ初耳だったのが、田辺製薬が日本のサッカー界を盛り上げた存在だったということ。
私はサッカー無知なので、せっかく熱心に教えてもらったのに色々右から左に流れちゃったので詳しくは↓でどうぞ。


耳にがっつり残ったのは
「この写真の昭和天皇陛下の後ろに立っているのが田邊氏。このように後ろに立つのは異例のこと。サッカーに詳しい田邊氏に解説の依頼が来た。その解説が素晴らしかったこともあり、昭和天皇はサッカーが非常に気に入り、天皇杯ができた。この写真は昭和22年で、写ってはいませんがこの周囲はGHQが」
単なる趣味ですけど、「占領下司法」を調べるため一時期アホみたいに資料総当たりしてたので、ガッツリ反応して「GHQが!!!!そうですね!その頃はそうでしたよね!!!!」

展示の終盤は現在の田辺三菱製薬が手掛けるお薬、これからの創薬について。
見知ったお薬が並んでいて、創薬についても聞き慣れた用語が出てきて、素人ながらン年間、免疫学を自主勉してる成果はあるんだなぁ~などと思いながら案内を聞きました。わかる、わかるぞ!みたいな。

「少し長話してしまいました」と時間を気にする案内の方。
ごめん、きっと私の相槌とか質問が脱線させちゃったのかもしれない。
でも脱線こぼれ話が大好物なのですごく楽しかったです。
ありがとうございました!!!!

みんなも行くといいよ!
企業博物館、企業史料館はいいぞ!!!!!!

次回更新は「免疫学」の続きに戻ります!

サイトでは細胞の世界を4コマやファンタジー漫画で描いています
来月上旬に夏コミの新刊入稿したらサイトを……サイトを更新するッ!





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