見出し画像

私は、頻繁に「偽善者」と言われていて、本当の善とは何かを考える機会に恵まれた人間でした。

まず、献血を大学生の時、仙台市で43回行った際、私に「偽善って何か知っている?」と問いかける人もいました。私としては、「何の役にも立たないゴミのような存在の私を献血が救ってくれているから、献血に行く」というスタンスだったと思います。でも他人からは偽善だと思われているのか、と・・。

そもそも「偽善」とはなんでしょうか。これは「対他人性」のsuperficial(うわべだけの)facade(外観)ということができると思います。
言ってみれば、良い人の「ふり」でしょう。

そもそも「対他人性の言葉である偽善」を自分に適用しようとは、私は考えたことがありませんでした。私にとっては、献血は、ゴミのような存在の自分を救ってくれる大切な存在であり、その行為(deed)について、誰かに対してfacade(外観)を持ってして、対抗などをしようとは全く思っていなかったのです。

ただ、いつも、「表面だけでもよくしよう」と心がけてはいました。なぜなら、小学校6年生の時、担任じゃない先生がそうおっしゃっていたからです。それは「偽善から始まる善」でした。

私にとっての献血も、最初はそのような「表面だけでもよくしよう」から始まったものでしたが、なぜでしょうか、徐々にのめり込み、43回目の献血の後、TSUTAYA北仙台で倒れるまで、私は献血にむしろ、すがるように生きていました。

そんな折、親族が輸血を必要とする事態になり、私は、今まで自分が「何の気なしにしていた献血が他人の命を救うことがある」という事実に衝撃を受けたのです。まさか!と。

流石に涙が止まりませんでした。

巷で「善行」と呼ばれるものに対する報いはこのように訪れるのかと思って涙が出ました。

決して「報い」が欲しかったわけではないんです。献血にこのような高尚な対価があるものだとは、全く思っていませんでした。
だけど天は私に報いを早々に与えてくださったと言えると思います。