自分が何に価値を置いているか / Yukiko
いつもありがとうございます。
Yukikoです。
2月に三女が入院したのですが、とても大きな気づきがありました。
またも入院すると聞いた時に(この半年の間で三度目なので💦)
● さすがにそれはまずいんじゃないか~❓
● 何日も休むことで辞めざるをえなくなったり、クビになるのではないか❓
● 彼女はこんなに弱くて、今の彼と結婚できるのだろうか❓
● 1人で生きていくとしても、食べていけるのだろうか…❓
と、心が揺れました。
仕事は次を探せばいいし、結婚はしなくても別に良いと思っています。
働けなくなったとしても、なにか公的に相談できるかもしれない。
だから、心配はしなくてもいいはずなのにね。
あきらかに、自我を選んでいました。
【肉体が問題なのではなく、心が問題だ】と、コースでは再三言ってくれているのですが、私は、頭で理解していてもまだ受け取り損ねているものがあるようです。
「気づいていないことは何か、本当に受け取りたいです。」
と聖霊に祈りました。
聖霊に差し出し、よくよくそれを見ると、
役に立たないと思われることに恐怖を覚えているのでした。
「役立たず」と思われたら見捨てられると、怯えていたんです。
それを投影して見ていました。
だから、家族に何か問題があったことを聞かされると、「ダメなやつ、役に立たないやつ」と思われないかと動揺するのです。
娘は、何も心配する必要もありませんでした。
彼女は起きたことを受け入れるしなやかな強さを持ち、ありがたいことに、職場の上司や皆さんに退院祝いをしてもらっていました。
それでもまだ何かあるような気がした私は、
「私はさらに学びを深めたいです。
私がまだ気づいていないことはなんですか?」
と再び聖霊に問いました。
すると、
先日、愛さんのクラス(Advanced Teachers Training Class)があり、「自分が何に価値を置いているか」の話をして下さいました。
その中で、愛さんが
「自我の巧みなものとして、相手を弱いもの扱いをして、弱いままでいてくれることに自分の価値があるという欲求もある。」
というような話をされました。
その時は、「いや、私そんなことない。」と思っていたのですが、なんだかとても居心地が悪い。
確かに、心配をいろいろしていた。
ということは…、相手を弱い者として幽閉していることだよね。
光を何度も見せてもらっていたけど、何かあるとザワザワしていた…。
えええー‼️‼️
無意識の中で、自分が役に立つ人間だと思えるように、相手が弱いままでいることに価値を置いていたのか‼️
家族の病気やケガ、お金の問題、仕事のことなど
「私が何とかしなきゃ!!」
と思っていたのですが、これこそが私の自我の目的だった!!
気づいていなかった💦
愛さんがそのクラスで
「起こることは全て自分が望んだこと」
と話されていましたが、まさにそうだったんです。
自我が自分でなくて本当によかった😭
すごく開放されたのですが、
あまりの自我のひどいカラクリの巧みさを知り、クラスの後、胃の調子が悪くなってむかむかしてきました😆
自我は、すぐに肉体の事で気をそらそうとするんですね。
このようなことはもう本気で続けたくないなと思いました。
もう金輪際、弱さをみるのを本気で辞めたい。
神の救済計画だけについていきたいです。
ワークブックにこのように書かれていました。★・。・☆・。・★・。・☆・。・★・。・☆・。・★・。・☆・。
今日は、神の経路を神に向かって開き、神の意志が私たちを通して神のもとまで延長されていくようにしよう。そのようにして、創造が果てしなく増大していく。神の声がこのことを私たちに語るだろう。神の法則が永遠に無限なるものとして保っている天国の喜びについても、語るだろう。神の法則以外に法則は存在しないということを聞き、それを理解するまで、私たちは今日の概念を繰り返す。
(中略)
私は、ただ神の法則のもとにある。
(奇跡講座 ワークブック編 中央アート出版社 レッスン76.11.1〜6)
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こうであり続けたい、と祈ります。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
Yukiko
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