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Destroy

譲れない事柄をベースに置いて、外せるものは外す。我慢できないものはストレスになるので我慢しない。ストレスにならない我慢はなるべくする。
時間を経て、現状必要のないものは手放す。現状必要のないものは入手しない。
現状にポイントを置き、一度今までの自分を忘れて必要不必要を決める。
節約や貯蓄をさすがに最近意識し始めた。

そもそも上昇志向が乏しい。人より金持ちになりたいとか、名誉が欲しいとか、偉くなりたいとかあまり思ったことがない。多分あまり外野に興味がない。だから人からの指図や指摘が本当に嫌いだ。
自分が悪いとしてもイラつきの方が勝つ。勝手にすればいいし察して動けばストレスはない。人類すべてが。しかし世の中そんな気の利く人間は一握りだ。こちらに合わせてくれるような世の中ではない。みんなそれぞれの細胞で生きている。
不安とはまた違う感覚。
別に自身の生き方に不安はない。死ぬまでにめんどうな作業は沢山あるだろうが、そんなものはこなすしかないしどうにもならん。どう考えてもここからマスにハマりに行くようなビジョンが見えない。余程のキッカケがない限り人はそうそう変わらないだろう。全てを捧げてもいいと思えるような他人事が欲しい。他人事に自分の人生を賭けれる人間が大人であり立派な行為であり現代社会においての在るべき理想郷だ。

前置きをしておくと、全て自分の選択なので正解不正解は自分に降りかかり、良し悪しも自分の責任であると承知である。
所謂、人としての幸せを手に入れる為のフィールドに立った事はある。しかしいつまで経っても他人事だった。自らを賭けてまでの情熱は生まれなかった。結果、それは仕方ないし人と人、出会いと別れは我々に日常的に課せられている。人と人の周りには人と人がいる。そのまた周りに人と人。
自分の生き方には合っていないのかもしれない。朝食を一族全員で囲んで、皆が揃うまで箸をつけない様な風景を見ると吐き気がする。
これだけ世の中にコンテンツが溢れ、我々日本人は労働に駆られ、自らを見立てて生きていかなければいけない。地位と名誉と経済力の余裕を兼ね備えていたとて、いかがなものか。歪んでいるといえばそれまで。妬み嫉みだと言われればそれまで。前置きにしている事が全て。

仲間が環境を変える。すばらしくもあり羨ましい。行動力と信念と覚悟。人生をきちんと見据えている姿勢、真っ当に現状と戦っている。
所詮、物理的な行動力しかない自分にとっては羨ましくもある。なぜ自分には信念がないのか。なぜ自分には目指すものがないのか。なぜ自分には向上心がないのか。なぜ自分はキレイに生きれないのか。
小心者で真面目なのは何処かで気付いている。
良からぬことは多岐に頭に浮かぶ。
もちろん犯罪行為などには手を出さないが、不良な事やグレーな行動には心理を掻き立てられる。
しかし、いざ行動となれば気持ちが落ち着かない。そう、シンプルにビビっている。
ペナルティは受けようとも、逮捕や抹殺されることは無い。気持ちの大きい人はドンと構えて失敗の可能性を考えもせずトライするだろう。そしてくぐり抜けるはず。自分はこの失敗の可能性数パーセントに非常に臆病になる。だったら初めから試みなければいい。この惨めったらしい生き方。
失敗と学びを地味に繰り返していくしかない。腹の据わった人間や、人たらしな輩はそれらをスイっと通り抜ける。罪悪感無く難なくこなす。
こちとら心配もしつつ、ビビりながらきちんと失敗する。不条理すぎる。生きづらい。シンプルにダサい。

断捨離をするモードが数年に一度訪れる。なぜか。理由は簡単、シンプルにお小遣いが尽きてきたからである。そう、所有物を現金に換える。地味だけど一番シンプルな苦肉の策。これがまたどーにかこーにか成っている。借金もないが貯金もない。ローンはあるが飯には困らない。酒とタバコはするくせにギャンブルは皆無。なのでこのモノを現金に換える作戦が自分には一番しっくりきていて分かりやすい。なんせモノが増える一方。物欲だけは生意気に止まらない。洋服や音楽媒体が主ではあるがその他も諸々自分の琴線に触れたものはついつい。
この歳になると次への資金作りではなく終活とも思えてくる瞬間が訪れる。
「あれを買うにはあと◯◯円」
「◯◯円になったからあれを買える」
などという思考はやがて、
「これをもってても死んだら誰がどうするんだ」
「こんなん残しといても次世代には意味ないな」
などど現金やその時の物欲以外の思考が巡りだす。
まぁ、これは仕方ないし正解だともどこかで思っている。ただその感覚に虚しさが多少生まれるだけの話。欲を止めたり嗜好が途絶えたらそれこそおもんなくなる。人として。これだけは沢山のサンプルを見てきているので割と事実性があると思う。
今その狭間にいる年齢なのかもしれない。若くもないし老いぼれでもない今が来ている。無思考多趣味とは地獄だ。趣味があって羨ましがれる人いるでしょ。趣味の為に日々を頑張れて、胸がトキメク。こんなに素晴らしいことはないし羨ましがられてもっともである。
これに類似した事をたまに言わることがあるが自身の感覚はちょっと違う。日々も頑張りたくないし、趣味を趣味とあまり思っていない。ある意味では趣味に追い込まれている。好きなモノ、好きな事をただ淡々と楽しんでいるだけの感覚。
そりゃあ有るのもは減っていくし、無いものは増える。楽しんでるだけではバランスは取れない。大成してでもいない限り我々庶民にそのバランスは課せられる。世のパパ達、ママ達は一時のハッピーの為に何らかの我慢や努力を日々コツコツとしているはず。それでこそ得られる幸福こそ趣味としと成り立つ様な気がする。趣味に金や時間を使うと言う事はそこまでの過程もセットである。
その過程が乏しい自分はある時にバランスが崩れる。あるものを減らし、無いものを増やす。これがいきなりやってくる。半世紀弱生きてきてようやく自身のからくりが解ってきた。自分の断捨離にはそんな理屈も含まれるため中々しんどい期間となる。バランス保てるまで回復したらまたそれの繰り返し。いつまで体力が持つか。

もっと目で見て触って調べて動いて体験して共有して食して嗅いでみるべき。おっさんの戯言に聞こえてしまうかもしれないが最後は自分に返ってくる。
ドームクラスのアーティストとライブハウスでたった数分のライブをしているアーティストのなにが違うのか。そりゃあ目に見えて違うものはある。人気のマス。セールス、キャパシティ、メディア露出など。しかし、しかしです。
どっちも良いものは良いし、悪いものは悪い。
めちゃくちゃ当たり前の答えだがこれが全て。
熱量は一緒だと思っている。自分が好きかどうかだ。向こう様はそれなりだ。高いチケットにはそれなりの意味があるし、ややこしいしがらみと対峙しているだろうし。手軽に買えるチケットにもそれ相当な価値はある。幸福度なんぞ自分次第だ。
どっちも体験する。井の中の蛙もいやだし、ミーハー丸出しのインフルエンサーみたいになるのもごめんだ。
鋲ジャンを着ているパンクなおじさんをバカにしていないか?
ペンライトやらカメラやらをリュックパンパンに詰め込んで歩くオタクをバカにしていないか?
ロリータファッションで歩くおばさんを影で笑ってないか?
目で見て触ってもいない輩にとやかく言われる筋合いは無い。確固たる「好き」があるということ。
大衆にブチ込まれたらそりゃあ違和感はあるだろうけど、その違和感を肯定できる心のキャパと感性がこちらにも必要。簡素な違和感で弾くような行為こそ哀しい。
それにはやはり上も下も右も左も中も外も経験していなければならない。偉そうに言ってしまってはいるが自分もまだまだこの感覚に到達するまでは未熟も未熟。人間一人一人の個性や趣味嗜好をできる限り肯定できる心のキャパを持ちたい。
熱量の違いで友人になれるかなれないかがこの歳になってくると重要。どんな事柄でも熱量を持っている人はカッコよく見える。嗜好の違いはあれどもリスペクトはできる。
無二と孤独は紙一重。右へ習えのこの世界ではそれなりに背負わなければいけないものもあるが、好きがある人は強くもある。良し悪しは大いにあるが経験してる奴らには絶対に勝てないと思っている。もちろん必要な経験のみの話。



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