なんでもいい

アリストテレスは幸福論を唱えた。人間の行為には手段と目的が存在する。大企業に就きたいからよい大学に入る、スポーツ選手として輝きたいから由緒あるクラブに加入する、寂しさを埋めるために恋人を作る、といったように。そうした手段-目的の構図は絶え間なく作られ、その果てにある目的を果たすことが幸福であると、アリストテレスはそう提唱した。否、私はこれに異議を唱えたい。勿論のこと、目的の為に手段を建てることは素晴らしいことで、努力するという意味でも人生を豊かにしていくことであろう。しかし、真の幸福とはそれで補完されるものなのか。

かの有名な登山家ジョージ・マロリーは、なぜ危険を冒してまで山に登るのかという問いに対して、「Because it's there」と答えた。そこに山があるから。彼は、そんな理由で危険を冒すのだ。この構図は決して手段-目的ではない。例えば、有名になりたいから山に登る、地上波に出演したいから山に登るといったものは手段と目的の一致した行為だ。それであれば、アリストテレスのいう幸福に繋がるはずだ。しかし、彼はただ、そこに山があるから登ったのである。手段と目的の一致しない行為だ、それは純粋行為とでも形容できよう。幸福の真髄はここにある。

私は、友人や恋人に対して必要以上に愛を感じている性である。それは、承認欲求や孤独回避、利害関係といった類の欲はあるのだろう。しかし、それ以上に彼ら彼女らがそういう人間だから好きなのだ。そこに何かの目的はもう存在しない。手段として友人や恋人を作っているわけではない。彼らが彼らとして存在しているから愛すのだ。

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