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『無駄』という、豊かさ。

この写真は、2006年頃、大学を1年休学して、カリフォルニアに留学していた時に、チェキで撮ったもの。色褪せてしまって、もう写真自体はないのだけど、この写真のデータだけは、残っている。

カリフォルニアの空は、びっくりするほど、青くて、高くて、澄んでいて。あんな気持ちで空を見上げることは、もうないのではと思うくらい、今でも、あの、空を見上げた時の気持ちを思い出せる。

1年の留学は、とても、楽しかったけれど、大学を1年休学してまで行ったからにはと、当時は、それなりにプレッシャーを感じていて、楽しい思い出もあれば、辛かったなということも、たくさんあった。もう一度、あの頃に戻りたいとは、絶対、思わない笑

それでも、いつも、上を見ると、この青々とした空が、そこには在って、それは、私の中に清々しさを運んできてくれた。それだけで、あの1年は十分行った価値があったのでは、と今でも思うくらいだ。


この写真は、当時持っていった「チェキ」で撮ったもの。その頃、デジカメはもう普及していたけど、今みたいに、誰もが持っているという訳ではなかったし、もちろん、携帯にはカメラなんてついてなかった。

当時、私は、パシャパシャとたくさん写真を撮って、思い出をデータに残せば良いものを、なぜか、フィルムにこだわっていた。デジカメより、フィルムカメラが良いと、わざわざフィルムカメラを日本で買って、持っていったくらいだ。


その1つが、これ↓

フィルムが絶版になってるけど、FUJIFILMのNATURA CLASSICAというカメラ。専用のフィルムで撮って出る色が、どうしようもなく、好きだった。


この、空を撮りに行った日のことを、今でも覚えている。

語学学校からステイ先に帰ってきて、ごはんの時間までの間、近所を散歩していた時に、可愛らしいポピーを見つけて、撮った1枚。

庭が広い家にステイしてた時に、学校が休みの日に、家の周辺を散歩している時に撮った1枚。

上を見上げたら、アメリカの国旗がひらひらと並んでいて。その日は、風が強くて、おさまのをじっと待って、撮った1枚。


私は、昨日食べたごはんや、なんなら、今日食べたものさえ忘れてしまうほど、記憶力がないけれど、こういうのって思い出せるものだ。

これを例えば、デジカメや携帯で撮っていたら、何にも思い出せないと思う。撮ったことさえ、覚えていないかもしれない。

どんな気持ちで撮っていたかも、その当時、どんな気持ちで生活していたかも、この写真を見ると思い出せるくらいだから、そう考えると、この1枚1枚に込められているものは、すごい。


チェキは、一発勝負だから、アングルを決めて、シャッターを1回押すまでに、ものすごい時間がかかっていた。
何度も何度も、ファイダーを覗いて、自分の中で、「これ!」というアングルになるまで、場所を変え、体制を変え、時に、風がおさまるのを待ったり、日が傾くのを待ったりして、大げさだけど、その1枚にその時の全てを託していた。
シャッターを押して、浮かび上がってきた、綺麗な青を見たときは、めちゃめちゃ嬉しかった。

当時のチェキは、その空の青さを、そのまま写し出すものではなかったけど、そこには、青い空の『空気感』を感じられた。不思議なもので、光や風や温度を感じられるほどの、空気感がその、四角い中にはあった。

誰もが羨む、カリフォルニアの地で、ただひたすらに時間をかけて、全くもって意味のない、別に誰に見せる訳でもない写真を、1枚1枚、全力で撮っていた当時の自分を思うと、暇なやつだなと思う笑

同時に、とても、感謝をする。

今の私の中に、この1枚1枚にかけていた、その時の純粋さと、ひたむきさがあるのかもしれないと思ったら、また、何かを全力でやってみよう、と思える。


時代は、どんどん便利になっていくし、それに伴って、「時間のかかること」「意味のないこと」「正確に残らないもの」「役に立たないもの」は、無駄とさえ感じるようになった。

でも、今、また、時代は、変わりつつあって、そういうものにこそ価値を感じられたり、意味を見い出せる感性が必要だと言われるようになってきた。

私も、また、フィルムカメラを引っ張り出して、無駄な時間を過ごしてみようと思う。
無駄こそ、現代の豊かさ。かもしれない。

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