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絵を描くと写真を撮ると、人生を生きる、と。

昨日は、仲良しの写真家の先生とお茶をしており。3年ほど前に、先生の写真教室に通っていて、その時、提出した私の数々の作品を見て、「こいつ、おもしろい」と思ってくれたのか、教室を卒業した後も、たまにお喋りを楽しんでいる。


ちなみに、当時の写真教室の最終課題が「写真集」を作ることだったんだけど、私が作ったのは、こちら。

タイトルが、『FILTER』で、「どの側面から物事を捉えるかで、世界の見方は変わる」「そのフィルターを磨いていこう」というのを写真集で表してみた。

ちなみに、この表紙は、二元論とか二次元とか、静脈と動脈とか、そういうのを表している。自分でも、なぞ笑


先生は、カメラの使い方を教えているのではなく、「写真と人生は一緒だ」(「どう生きるか?」)というのを、写真教室を通して伝えていて、それを現象学やら、哲学やら教育論やら色んな方向性から教室を構成していて、私がやってるコミュニティとか絵画教室とかは、そういうのに近いので、多分、考えが似ているんだと思う。


私も、抽象画を描くことと人生は一緒だと思っているし、そもそも、大切なことは『日常』から全て学べると思ってるので、それを感じ取る「感度」を高く持つことが大事だと思う。(そして、いつも、そういう本当に大切なことって、なかなか伝わらないよねって話してる)


今は、スマートフォンがあるし、カメラの性能も高いので、いつでも誰でも簡単に写真を撮れてしまうけど、それと、一眼レフを構えてレンズを覗いて、ダイヤルを合わせて、シャッターを切るというプロセスを踏んだ上で写真を撮るのとでは、当たり前だけど、感じること、感じ得ることは、全然違う。

例えば、今のカメラは、簡単にズームが出来てしまうけど、本来は、人に近寄って、レンズを向けるもの。先生が、なかなか、人に近寄って行ける人がいないと言っていたけど、それって、人と人との心の距離を縮められないという人の心象(恐怖心)を表しているんだと思う。


絵画教室でも、自分の描いた絵を人に見せることにまず、恐怖を感じる人も多い。正解も不正解もなく、上手いとか下手とかもなく、こうすると良い、こうするとダメとか、そういう、そもそもの評価基準がない中で、「自分」をそのまま映し出す「抽象画」を他人に見せるのは、かなり勇気がいることだ。


写真も絵も一緒で、まずは、自分の感性や感覚を解放して開いていくこと、つまり、人や世界に対して『オープンマインド』になることで、自分が好きなように写真を撮れたり、絵を描けたりしていく。

それは、人生も一緒で。

人や世界に対して、安心感がなければ、自分を解放していくことは、できない。自分を生きることは、できない。


安心感の中で、自分の中の芸術性(生きることがそもそも芸術性があるという意味)を高めていくことで、 人や世界の中で、自分というのを生かしていくことができる。

結局、「自分をどう表現していくか?」が、この世界でやることだと思う。



という、こんな話ができる人があまりいないからか、私と先生のお茶タイムは、いつも6時間くらいに及ぶ笑

おしまい。



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