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学校との関係

一生懸命のぶつかり合い

どうして学校と上手くいかないんだろう。学校側も一生懸命、真剣に子どもたちと向き合っている。家庭では自分なりに文献を読んだり、講演会を聞きに行ったり、教育相談、医療機関など、できる限りのことはやってきたつもりだ。お互いに一生懸命だ。しかし、そのうち両者の中にこんな気持ちが湧いてくる。

学校側の言い分
「学校でみんなと一緒にできるようになるために、あとは家庭で指導してください」
「学校にいるのはあなたの子どもだけじゃないんです」
「今これができないと、将来苦労するのはあなたの子どもですよ」
保護者の言い分
「あまり要求言いすぎるとモンペだと思われちゃうだろうなぁ」
「みんなと一緒にできることがゴールじゃないのに、わかってよ」
「集団の中で浮いちゃってるんだろうな、うちの子」

今できなければいけないこと

学校側は、子どもの将来を考えて、今習得しないといけないことを必死で教えてくれている。足りない部分は家でやってきて、という。保護者は【今できなければならないこと】は、学校側の提示する(学習指導要領)のそれとは違うなぁ、と思う。この時点で私もはやく気付けばよかった。それに合わないのであれば支援級という選択肢があるということを。いや、気付いてはいたけれど、それは本人が望まなかった。何より頑張り屋だから、できないことは頑張りたい、という意思がハッキリしていた。それがより学校側の一生懸命を助長し、娘の頑張りに頼り、過度な要求を出し続けた。

学校側の求める子どもの理想の姿

授業中は静かに席につき、先生の指示に従い、協働的に学び合う姿。礼儀正しい個性豊かな子どもたちは、互いの中にある多様性を認めあい、高め合う。

こんな子ども、いますか?逆に、こんな大人は、いますか?いや、いるかもしれない。けれど、これを強要されて、自分の心を圧迫し、不登校になる子どもがいることを、学校側は知っているのでしょうか。

不登校児になると見えなくなる

基本的に、先生方は「学校に来ている子を指導する」これ、当たり前ですよね。「不登校になった子」は「学校に来ていない子」なので指導できません。今は「登校刺激を与えないように」という通達もありますから、学校側から登校するよう圧力をかけることはダメとされています。もちろん、それは良かったですよ、苦しむ子どもを無理に嫌な場所に連れて行くことが、親にとってもストレスになりますから。でも、でも、おかしくないですか?学校で勉強できないで、家にいて、あとはこの子の教育は親任せって?

不登校になると、その子の困り感、親の困り感が学校からは見えなくなります。子どもや親の行き場所は教育相談などのカウンセリング機関です。そこで思いのたけを話しますが、そこで行きつくところは「無理させない」です。先生の顔色をうかがうことなく、心の中をさらけ出して、共感してもらえることで、ある程度カタルシスを得ることはできますが、肝心な「その後」に繋がらないのが、新たなストレスを生んでいます。

相談機関は、直接学校に働きかけ、本人や保護者の苦労を伝え、対応を考えるように示唆してくれます。しかし、肝心な学校側がそれを軽くとらえて、真の理解と指導に繋がっていかないことが多いです。保護者としても、相談機関の方々にこれだけ動いていただいたにもかかわらず、変化しないのは、これまでの苦労は一体何だったんだ、という無力感に襲われます。

花が咲くように

花はそれぞれ種類によって好む土が違うように、子どももそれぞれの花を咲かせるために違う土が必要なんだと思います。水分の多い土だったり、酸性やアルカリ性など…子どもの学びを止めないために(保護者に丸投げしないように)、学校の中に様々な選択肢を増やしてほしいと思います。


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