阪急→オリックスへの球団売却経緯
はじめに
本記事は1988年に阪急電鉄とオリエント・リース(現:オリックス)で行われた阪急ブレーブスの売却に関する経緯をまとめたものです。
タイトルは「オリックス」としていますが、当時の経緯を踏まえ、同社の表記は当時の「オリエント・リース」とします。
記事末尾にて、時系列一覧と参考文献を記載しておきます。
背景
阪急側の事情
1988年1月に、阪急電鉄(以下「阪急本社」と表記)社長の小林公平が新オーナーに就任、球団運営に向けた抱負を語った。
その一方、同年2月頃に阪急本社内で以下の発言をしたとされる。
時折しもバブルの時代、阪急本社では沿線を中心とする再開発プロジェクトを多数推進していた。中島(西淀川区)・彩都・茶屋町等が該当するが、ここに西宮北口の再開発も含まれる。これら事業の推進に多額の資金が必要だったため、赤字事業の切り離し、とりわけ球団売却の必要性が認識されていたものと思われる。
オリエント・リース側の事情
オリエント・リース(以下「オリエント」と表記)は1964年に三和銀行(現:三菱UFJ銀行)や日綿實業(現:双日)等が出資して創立された。元々は情報機器・産業機器のリース専門の会社であったが、金融事業にも手を広げるなど多角化を進める。
このためリース専業ではなくなったことから、創立25周年を迎える1989年に新社名「オリックス」への変更を予定していた。
同社としてはこの新社名を一般に浸透させる方策を検討しており、その中で社長の宮内義彦が「球団でも持つか」と度々冗談を飛ばしていたとされる。
両者の接点:三和銀行
三和銀行(現:三菱UFJ銀行)は阪急本社・オリエント双方のメインバンクであり、同行をメインバンクとする両社は「三水会」という企業グループを形成していた。
特にオリエントの設立時に出資しており、二代目社長には同行の副社長であった乾恒雄氏が就くなど、三和・オリエント間の繋がりは極めて強い。
80年代後半は企業の資金調達が株式・社債にシフトする時代であり、銀行による融資が減少する(すなわち「銀行離れ」が起きる)時代であった。これを受けて三和銀行は新規事業としてM&Aへの進出を図る。
また取引先の若手経営幹部向けに「三縁会」という異業種交流会を主催しており、これが球団売却における両社の接点となる。
交渉の開始
発端:宮古島の雑談
球団売却の契機は、三縁会主催で行われた宮古島リゾート視察旅行における酒席での雑談とされる。具体的な日付は1988年8月20日とのこと。つまり2ヶ月足らずで成立に至ったことになる。
この場における酒席で、オリエントの参加者が社名変更および新社名の浸透について「いっそ球団でも買おうかという話も出ている」という一言を発した。これを阪急本社・三和銀行の関係者が聞きつけ、オリエントに球団売却を打診したことで、球団売却の話が進んでいく。
ちなみにこの発言者の名前は西名弘明。後の球団社長である。
売却の希望
阪急本社はかねがね球団売却の意思があったが、その際に以下3つの希望を提示したとされる。
阪急単独の売却は避けたい
売却を行う場合、他球団のそれと同年に実施したい
上記2と関連し、難波再開発に伴って南海が撤退する可能性がある。その場合はこれとタイミングを合わせて実施したい
三和銀行は南海→ダイエーへの球団売却話にも関与しており、1988年中に球団が売却される可能性があることを察知していた。
また宮古島の雑談後、改めて阪急本社側が売却に前向きであることを知り、オリエントとの接触を開始した。
南海売却報道とその影響
阪急本社→オリエントへの球団売却に際し、同年に行われたもう一つのケース、南海→ダイエーへの売却に軽く触れておく必要がある。
既に両社間の交渉は水面下で行われていたが、「ダイエーが南海を買収し、福岡に移転する」との報道が踊ったのは1988年8月28日。
ただしダイエー・南海首脳はともに報道を否定したが、9月4日に巨人軍オーナーが新球団の加盟を示唆したことで再燃する。
翌年以降の本拠地移転・球団譲渡はともにオーナー会議によって決められるが、このオーナー会議が10月1日に予定されていた。本来オーナー会議の承認事項は事前に伝えられるのが慣例のため、南海→ダイエーの件は既に関係者には知られていたことになる。
これを受けてか、オリエントは翌年4月1日からの社名変更告知(9月7日)の翌々日、9月9日に阪急本社へ球団買収の意思を非公式ながら伝えたとされる。ここから球団譲渡に向けた動きが具体化・加速していく。
なお、南海→ダイエーへの球団売却は10月1日のオーナー会議で承認された。
合意に向けて
スケジュール
球団売却の流れが決定的となったことを受け、両社は厳秘を貫きながら、売却に向けた具体的な作業に動き出す。
まずスケジュール上のターゲットとして決めなければならないのが、その承認を行うオーナー会議の日程である。もともと予定されていた10月1日では間に合わない。このため別日程での開催が必要となる。
そこで関係者は前例を調べ、日本シリーズの直前・当日にも開催例があることを知り、日本シリーズ開催前日である10月21日をターゲットとした。
条件(要望)
阪急本社はオリエントへの球団売却にあたり、3つの「条件」を提示した。
西宮球場の継続使用
ブレーブスの継続使用
上田利治監督の留任
1については球場周辺住民への配慮が必要なこと、また今後予定される西宮北口の再開発構想策定に一定の時間を要することから、2〜3年は新球団による西宮球場の利用を条件としていた。
ただし2,3については新球団側の意向も汲み、「条件」より「要望」という形でオリエント側に提示されたとのことである。
なお上田監督の留任については、条件提示前の9月11日に小林公平オーナーが早々に会見で発表していたことも付記しておく。
金額
本件の売却対象は「株式会社阪急ブレーブス」(以下「球団」と表記)であるが、西宮球場等の施設は阪急本社の所有であり、球団の所有ではない。
球団自体は10億円近くの赤字を産んでおり、これといった資産はない。しかし選手とファンがおり、宣伝効果も産むブランドである。このため、価値すなわち譲渡額の算定が難航したが、結果的には前例となる南海→ダイエーへの売却額と同額の30億円で決着した。
合意の成立
これらの準備を終え、阪急本社・オリエント間の基本合意が成立した。具体的な日付はないながら、9月末のことと思われる。
10月1日に小林オーナーから堀新助パリーグ会長に対して球団売却の旨を事前に伝えていたことから、上記以前に合意が固まっていた可能性が高い。
両社首脳が同席する基本合意成立のセレモニーは三和銀行頭取の立会のもと10月14日に行われ、あとは正式発表を行うばかりとなった。
なお、ここまでの流れを球団は全く知らない。
正式発表
現場への通達
小林オーナーが土田善久球団社長へ売却を通達したのは基本合意セレモニーの翌日、10月15日であった。
なおその前日(つまりセレモニーが行われた日)、球団は1,000万円をかけて作成したプロモーションビデオをお披露目していた。現場が一切売却を知らなかったことが窺える。
上田監督への通達はその2日後である10月17日に行われ、その場でオリエントの宮内社長に引き合わされた。その場で宮内社長は上田監督に引き続き指揮を取るよう要請している。
土田社長・上田監督とも19日までの秘密厳守を要請され、実際その日まで球団売却が明るみになることはなかった。
阪急ブレーブスの売却が正式に会見で発表されたのは1988年10月19日、午後5時。阪急側は小林公平オーナーが、オリエントは宮内義彦社長が出席し、それぞれの存念を語った。
土田球団社長は号泣しながらその無念を語った。
なお、球団職員への通達は正式発表の2時間前、午後3時に行われたとのことである。
付録
経過まとめ
8月20日:宮古島の三縁会でオリエント担当者が球団買収意思がある旨を発言
8月下旬?:阪急本社・三和によるオリエントへの接触開始
9月9日:オリエント宮内社長が阪急本社へ非公式に球団買収の意思を伝達
9月末?:阪急本社・オリエント間での合意成立
10月1日:阪急小林オーナーが非公式に堀パリーグ会長へ球団売却の旨を伝達
10月14日:阪急本社・オリエント首脳による基本合意セレモニー
10月15日:阪急小林オーナーより土田球団社長へ売却を通達
10月17日:阪急小林オーナーより上田監督へ売却を通達
10月19日:球団売却正式発表
参考文献
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