見出し画像

オリックスの神戸移転・球団名変更経緯

はじめに

  • 本記事は1990年にオリックス球団によってなされた神戸への本拠地移転・球団名変更に関する経緯をまとめたものです。

  • 記事末尾にて、時系列一覧と参考文献・記事を記載しておきます。

阪急ブレーブス売却時の「3条件」

1988年10月19日、阪急電鉄は傘下のプロ野球球団「阪急ブレーブス」をオリエント・リース社(翌1989年4月より会社名を「オリックス」に変更。以降の表記はオリックスで統一)に売却することを発表した。
この球団売却にあたり、阪急電鉄側はオリックスに対して3つの条件を提示し、オリックス側もこれに合意したとされる。

  1. 西宮球場の継続使用

  2. 球団名「ブレーブス」の継続使用

  3. 上田利治監督の留任

条件提示に至る過程・その内容については、以下記事を参照されたい。

この合意の下、翌1989年より新球団「オリックス・ブレーブス」が活動を開始し、売却時の合意は守られたかに思われた。しかし、この「条件」には致命的な欠陥があった。期限が定められていないのである。
この欠陥をオリックスは見逃さず、自らが目指す球団像の実現に向けて経営の舵取りを進めていくこととなる。

オリックスの目指す球団像

では、オリックスはどのような球団を目指していたのか。

オリックスは、球団創設時からプロスポーツチームとしての自立、つまり、親会社に依存しない独立採算制(黒字経営)を目指していた。もちろん、エンターテインメントとしての魅力を損なわない形での独立採算制である。

井箟重慶「プロ野球 もうひとつの攻防 『選手vsフロント』の現場」角川SSC新書

上記にある通り、オリックスは当初から球団の黒字化を目指していた。
阪急からの球団買収時、球団の単年度赤字は10億円近くと言われていた。黒字経営を目指すならば、当然収支の改善が必須となる。このためオリックスは球団代表の公募を行い、元丸善石油(現:コスモ石油)の井箟重慶を採用。これまでコストのかかっていた選手・スタッフへの待遇を見直すなど、従来の慣習に囚われない球団経営を目指した。

その一方、前年に40歳ながら44本塁打・125打点の2冠、MVPにも輝いた「不惑の大砲」こと門田博光を獲得するなど補強も怠ることはなかった。

この1989年に、オリックスはチーム運営以外の面で1つの変化を見せた。本拠地たる西宮球場ではない球場、グリーンスタジアム神戸での主催試合を大幅に増やしたのだ。

グリーンスタジアム神戸

球場の生い立ち

グリーンスタジアム神戸(現:ほっともっとフィールド神戸)は、その正式名称を「神戸総合運動公園野球場」と言う。施設の所有者は神戸市である。
同球場は1985年に開催されたユニバーシアード神戸大会の開催会場として開発された神戸総合運動公園の敷地内にあり、1988年3月6日に開場した。
中堅122メートル、両翼99.1メートルの広さは同年開場の東京ドームを上回り、「日本最大級の野球場」と言われた。
なお当時の本拠地であった西宮球場にはラッキーゾーンが存在し、これを踏まえたサイズは中堅118.9メートル、両翼91.4メートルであった。

プロ野球の試合開催

グリーンスタジアム神戸で初めてプロ野球の試合が開催されたのは、開場から6日後の1988年3月12日、阪急vs阪神のオープン戦であった。同年はこれを含めオープン戦2試合、公式戦1試合が阪急主催で行われている。
公式戦の初開催は1988年5月10日の阪急vs南海戦で、この試合は阪急が4-1で勝利した。勝利投手は星野伸之、後のBW連覇時のエースである。

オリックス主催試合の増加

1989年に阪急から経営を引き継いだオリックスは、グリーンスタジアム神戸での公式戦主催予定試合を前年の1試合から14試合に増加させた。そのうち13試合はオリックスと同じ新球団のダイエー戦である。
当時の公式戦は130試合であり、主催試合は対戦球団ごとに13試合ずつ開催される。すなわちダイエー戦の主催試合はすべて、当時の本拠地である西宮球場ではなく、グリーンスタジアム神戸での開催が予定されていた(※)。
※うち2試合は雨天中止の影響で西宮開催。

なぜこれほどグリーンスタジアム神戸での主催試合を増やしたのかについては明確な史料がないものの「ダイエー職員をターゲットとしたのではないか」との説がある。
ダイエー創業者(球団オーナー)の中内功は神戸出身であり、同市にはダイエーの店舗が多数展開していたため、これら店舗の従業員を動員のテコと見ていたというものである。
また中内功は移転先の検討にあたり、まず福岡ではなく出身地の神戸を希望しており、その候補地にグリーンスタジアム神戸を推していたとされる。こうした背景もあって上記の説が囁かれているが、いずれも想像の枠を出るものではない。

なお、翌1990年もグリーンスタジアム神戸でのオリックス主催試合は13試合を数えた。この年は対戦相手が分散されてはいたが、神戸に対するオリックスの関心が引き続き強かったことが伺える。

本拠地移転の準備

野球の善戦、集客の苦戦

オリックス・ブレーブス元年となる1989年、前述の門田や1984年の三冠王であったブーマーを主軸とする「ブルーサンダー打線」が猛打を見せ、首位近鉄にわずか1厘差の2位と善戦した。

しかし集客面では苦戦し、観客動員数(公称)は前年の110万人から104万人に減少した。オリックスはこの点を問題視する。

集客に向けた市場調査

当時のセ・リーグ球団は巨人戦の放映権料を主たる収入源としていたが、パ・リーグに属する以上これに頼ることはできず、観客収入が収入源の中心となる。このためオリックスは観客動員の増加を急務とし、周辺地域の市場調査を実施したところ、以下の結果が報告された。

  • 球場周辺地域には女子大が多く存在し、女子大生や家族連れの集客を見込むことができる。

  • しかし、西宮球場はターゲット顧客から良いイメージを持たれていない。

  • 理由は同球場で公営ギャンブルが開催されているため。ギャンブルの開催場所は治安の悪い印象があり、これが敬遠される要素になっている。

西宮球場はプロ野球の入場料以外の収入源を確保できるよう、アメリカンフットボールやコンサート、そして公営ギャンブルである競輪にも使用可能な複合施設となっていた。しかしこれが仇となり、野球場としての価値を下げていると判断されたのだ。

同球場の所有は阪急電鉄であり、オリックスが自由に球場を改修したり、用途を決めることはできない。また球場使用料の問題もあった可能性もある。
こうした事情から、オリックスは西宮球場が集客の足枷と考えるようになった。

本拠地移転の決行、そして

神戸市の誘致活動

翌1990年5月、神戸市の市民団体・商店街が中心となってプロ野球球団誘致活動が巻き起こった。当初は対象の球団名が明かされなかったが、「来てよ、オリックス・ブレーブス」と銘打ち始めたことで明らかになる。
同団体はオリックスの神戸誘致に向けた署名活動を熱心に展開し、約6万人超の署名を集め、7月13日に宮内オーナーへそれを手渡した。

移転は市民の熱意だけで実現されたものではなく、神戸市のバックアップも大きく作用した。所有するグリーンスタジアム神戸の設備改善に加え、球場使用料の契約形態見直しや売店・広告収入の折半等、収支の改善につながる提案がなされたことが移転を決める要因になったとされる。
また球場の収容規模・周辺人口から一定の集客が期待できたことも、オリックスの目指す独立採算の実現に相応しい環境と判断された一因と思われる。

なお移転先については神戸市以外にも札幌市、千葉市、大宮市(現:さいたま市)といった候補地があったようだが、前述の提案によりビジネス上のメリットがあること、また保護地域(フランチャイズ地域)の変更が不要であることから、神戸市が第一の移転先候補となった。

移転の決定と新球団名の公募

これを受けてオリックスは1990年8月13日、翌1991年以降の活動に関する以下の発表を行った。

  • 本拠地を西宮球場からグリーンスタジアムへ移転する。

  • 球団名を新名称に変更する。なお新名称は公募にて決定する。

球団名変更はこれまで報道がなく全く突然のものであり、大きな波紋を呼ぶこととなった。
経緯としては、誘致活動を行った団体の世話人による「ブレーブスのままでは神戸市民に親近感を与えられない。市民に広く公募しよう」との提案がオリックス側に受け入れられ、そのまま実行されたとのことである。

この段階で売却3条件のうち2つまでを無効にされた形となる阪急電鉄だが、それに抗議する声は同社から挙がらず、小林公平元オーナーは「2年たてばそれぞれの会社の状況も変わってくるものです」と述べるにとどまった。
もともと売却の時点で阪急電鉄側は西宮球場の使用予定を2〜3年と考えており、同社による西宮北口駅周辺の再開発計画も進展を見せていたため、オリックスによる球場利用に対するこだわりが薄れていたものと思われる。
また球団名・監督については売却時点から「新球団の意向もあるから要望程度で」と考えていたとされ、こちらについても同様に思い入れが薄かったのかもしれない。

監督人事の変動

1990年8月13日の神戸移転・球団名変更発表に対し、上田利治監督は「原因は観客動員が少ないから。監督として責任を感じている」とのコメントを残していた。
後に判明したことだが、上田監督は前年の1989年オフに退陣を申し出ていた。これは宮内オーナーをはじめとする球団首脳の慰留によって翻意され続投となったが、1990年に入っても辞任の意思は変わることはなかった。そして9月5日、上田監督単独による記者会見にて辞任が発表される。
これにより、阪急ブレーブス売却時に合意された3条件は全てその意味を失うこととなった。

なお上田監督退陣を受けてのオリックス側の動きは早く、後任として神戸市出身の元巨人選手・コーチであった土井正三を後継候補と定め、9月17日に監督就任を正式に要請、3日後の9月20日に決定している。

新球団名の決定

話が前後したが、1990年8月より行われた新球団名の公募には約8万7千通の応募が寄せられ、その中から747通を集めた「ブルーウェーブ」が港町・神戸に相応しい名称として採用されることとなり、10月5日に発表された。

これにより1991年以降、新たにオリックス・ブルーウェーブとなった球団は、新指揮官たる土井正三監督の下、新たな本拠地であるグリーンスタジアム神戸を舞台に戦うこととなった。

付録

経緯まとめ

1988年3月6日:グリーンスタジアム神戸開場。
1988年3月12日:グリーンスタジアム神戸で初のオープン戦。
1988年5月10日:グリーンスタジアム神戸で初の公式戦。
1988年10月19日:阪急ブレーブスのオリックスへの売却発表。
1989年オフ:上田利治監督が辞任以降(慰留される)。
1989年オフ?:オリックスによる市場調査。西宮からの移転検討を開始。
1990年5月:神戸市民によるプロ野球球団誘致活動が始まる。
1990年7月13日:神戸市民団体より宮内オーナーへ署名を手渡す。
1990年8月13日:翌シーズンからの神戸移転・公募による新球団名への変更を発表。
1990年9月5日:上田利治監督が辞任を表明。
1990年9月20日:土井正三新監督の就任が決定。
1990年10月5日:新球団名「ブルーウェーブ」を発表。

参考文献


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?