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合併球団の本拠地決定経緯

はじめに

  • 本記事はオリックス・近鉄の両球団合併により誕生した「オリックス・バファローズ」の本拠地に関する変遷・経緯をまとめたものです。

  • 記事末尾にて、時系列一覧と参考文献を記載しておきます。

合併交渉時の経緯

保護地域(フランチャイズ)

「本拠地」と聞くとまず球場を思い浮かべるが、その前に本拠たる地域を決めなくてはならない。その後、地域内の球場を決めることとなる。

その本拠たる地域は、正式には「保護地域」と呼ばれる。
俗に「フランチャイズ」とも呼ばれ、以下のように野球協約(プロ野球の憲法的なもの)で定められている。

・保護地域は1球団につき1都道府県とする。
・球団はその保護地域下で主催の野球イベントを排他的に行い、利益を得ることができる。
・他球団の保護地域下で野球関連のイベントを実施する場合、当該都道府県にある全球団の許諾を得なければならない。
・公式戦ホームゲームの半数以上を保護地域内の1個の「専用球場」で主催する義務を負う。(ただし、実行委員会の承認を得れば変更は可)
・保護地域の変更をする場合は、オーナー会議の承認が必要となる。

2004年のオリックス・近鉄両球団の合併に際しても保護地域の設定が必要となるわけだが、ここで両社は大阪府(近鉄の保護地域)・兵庫県(オリックスの保護地域)の2府県を保護地域としたい旨を表明した。
なお合併に関する詳細な経緯については、以下記事も参照されたい。

これに対し、オリックスと同じく兵庫県を保護地域とする阪神が反対。「野球協約の改定が先決」と主張した。
しかし阪神側も甲子園球場を利用できない高校野球の開催期間中のホーム球場として大阪ドームを使用したい意向があり、調整の結果、12球団代表者会議(2004年7月5日)にて以下の特例を適用することで合意した。

  • 合併球団・阪神の本拠地を、大阪府・兵庫県の2府県とする。

  • 本特例は2005年から2007年の3年間限りとする。

折しも2004年7月は経営者側が合併を通じた1リーグ化構想を最も強硬に打ち出していた時期であり、合併交渉の障壁になりうる要因は早々に解決したい意図があったのかもしれない。

ともあれ上記案は同年9月8日のオーナー会議にて正式承認され、阪神および合併球団は2007年まで大阪府・兵庫県の双方を保護地域に置くことが決定された。

専用球場(スタジアム)

保護地域は特例として2府県とすることが認められたが、専用球場は野球協約の通り1つとされた。このため、オリックスは従来の神戸総合運動公園野球場(当時:Yahoo!BBスタジアム、以下「神戸」と表記)か大阪ドームのいずれかに決定する必要があった。

これを受け、合併承認後の2004年9月24日、オリックスは2005年の専用球場を大阪ドームとし、準本拠地を神戸とする旨を発表。また大阪34試合・神戸32試合と、ほぼ半々の割合で主催試合を開催するとした。

しかしここで疑問が生じる。
近鉄の球団経営を圧迫した一因に、年間約6億ないしは10億円と言われる大阪ドームの球場使用料が挙げられていた。一方、神戸は2002年に球場の管理運営権が神戸市からオリックスに譲渡されており、球場の使用料は年間6,000万円。コスト面では圧倒的に神戸優位であった。
にもかかわらず、専用球場には大阪ドームが選定されたのである。

この背景を把握するためには、大阪ドームの存在、特にその経営に目を向ける必要がある。

大阪ドームの成り立ちと経営

建設計画

大阪に多目的ドームの建設計画が最初に検討されたのは1981年。大阪市の西南部臨海地域(南港)が予定地とされた。
利用の中心は当初よりプロ野球の公式戦開催と目されており、近鉄球団の誘致を試みたものの、アクセスが市営地下鉄(現:Osaka Metro)に限られ不便な上、自社の鉄道路線も接続しえない立地のために近鉄側が難色を示し、結局立ち消えとなった。

しかし1990年、東京ドームの開場(1988年)や福岡ドームの建設計画に触発された地元財界が多目的ドームの建設を訴え、建設計画が再浮上する。
これを受け、大阪市は同年7月に市長の諮問機関として「多目的ドーム建設検討委員会」を設置し、予定地等の検討に入った。
天王寺公園等、複数の候補地が検討されたが、1991年に大阪ガスの工場敷地の遊閑地を中心とする西区千代崎(通称:岩崎橋地区)を予定地に決定。ドームを核とするまちづくり事業として推進されることとなった。

建設と近鉄誘致

大阪ドームの建設・管理に際しては、大阪市を筆頭株主とし地元財界が共同出資する第三セクター方式が取られ、運営主体「株式会社大阪シティドーム」が1992年1月に設立された。計画は進み、1994年7月に着工を開始する。
ドームには球場施設に加えてショッピングモールやアミューズメント施設といった、イベント日以外にも機能しうる商業施設が建設された。

新たに建設するドームでも、主なイベントはプロ野球の公式戦が想定されており、前回計画と同様に近鉄の誘致を働きかけた。
建設予定地はJR大阪環状線の大正駅が近く、付近に地下鉄長堀鶴見緑地線の延伸に伴う新駅開業が予定されており、一定の集客を見込めるとされたこと、また近鉄が直通を予定している阪神の新線(後のなんば線)でドーム前に新駅設置が計画されていたことから、集客・シナジー双方の面でメリットがあると近鉄側が判断。本拠地移転に合意した。

こうして大阪ドームは1997年3月に開場し、同年より近鉄球団の専用球場となった。
建設費は498億円、総事業費は696億円。総事業費のうち500億円弱は融資(借金)とされる。

建設後の経営

大阪ドーム元年となる1997年、近鉄球団の年間観客動員数は球団史上最高の186万6000人を記録。しかし以降は動員数が伸び悩む。近鉄が優勝した2001年こそ159万3000人であったが、概ね110〜130万人台の動員に留まった。

一方、神戸を本拠地とするオリックスは日本一に輝いた1996年こそ観客動員数179万6000人を記録したものの、その後は成績不振もあって動員数が低迷。100万人台を記録した年もあり、近鉄を下回る水準であった。
また神戸・大阪両球場の周辺人口を比較すれば後者に分があり、観客動員数の増加を期するオリックスとしては、ビジネス上の観点から潜在需要の大きい大阪ドームを専用球場に選んだものと思われる。

なおオリックスは1990年にも類似の理由から神戸への本拠地移転を行っており、2004年もその例に倣ったものと推測される。
なお神戸移転の経緯については、以下記事も参照されたい。

話が脇道に逸れた。大阪シティドームの経営に戻す。
大阪ドームは元々多目的ドームとして建設され、野球を含む様々なスポーツやコンサートの開催、またショッピングモール等の周辺施設の利用が計画されていた。1996年時点の経営計画では年間目標として来場者数:600万人、稼働日数:300日が掲げられた。

しかし実際は開業初年度を除き年間来場者数が400万人を下回り、来場者数・稼働日数とも概ね目標の6割程度に留まった。この理由は以下の3点とされる。

  1. プロ野球以外の集客の伸び悩み
    近鉄戦は開場初年度をピークに動員数が伸び悩んだものの、年間100万人以上を安定して記録していた。しかし、ドームの年間来場者数目標は600万人である。この達成には野球以外のイベントにおける来場者の増加が不可欠であるが、これが低迷した。
    特にコンサートでは曲に合わせて観衆がジャンプすると、地盤の弱さから地震並の振動を発生させるという事象が発生したため、周辺住民が苦情を申し立てる事態に発展。一部のアーティストがコンサート開催を断念するなど、低迷に拍車をかけた。

  2. 周辺地域における大規模集客施設の不在
    ドームの建設地域は元々工場区域であり、周辺にめぼしい集客施設が存在しなかった。これを見越してドームにはショッピングモールなども併設されたのだが、単体での訴求力が弱く、(イベントの開催如何に関わらず)ドーム自体を目当てに訪れる顧客は少なかった。

  3. アクセスの悪さ
    開場直後の時点では、JR大正駅・地下鉄ドーム前千代崎駅の2駅が最寄駅として存在したが、阪神なんば線ドーム前駅の開業は2009年である。このため大阪都心からのアクセスが不便とされ、来場者数低迷の一因とされた。ただし現在は一定程度改善されたものと思われる。

出典:関西社会経済研究所「関西経済復活の軌跡と今後の課題」

イベントも増えず、来場者数が低迷する状況に大阪シティドームは何ら有効な対策を打つことができず、経営状況は年を追って悪化。黒字化どころか毎年約10〜20億程度の営業赤字を積み重ねていく。
約6〜10億と言われた近鉄戦の球場使用料がありながら、その倍以上の赤字を叩き出していたわけである。

出典:関西社会経済研究所「関西経済復活の軌跡と今後の課題」
出典:関西社会経済研究所「関西経済復活の軌跡と今後の課題」

そのような中で毎年一定額の利用料をもたらしてくれる近鉄は数少ない安定収入源と言って良く、大阪シティドーム側とすればこの優良顧客を失うことは息の根を止められるに近いものであったことが察せられる。

大阪シティドームの破綻

合併時の使用料減額要求

オリックスは近鉄との合併交渉の時点から大阪ドームの使用料の高さに気づいており、2004年6月には減額を要請。しかし交渉が難航したのか、同年8月に大阪シティドームに以下の要望を提示する。

  • オリックスは球団主催の公式戦の半分以上を大阪ドームで開催する。

  • その代わり、近鉄が払っていた年間6億円の球場使用料は廃止し、大阪シティドームへ公式戦の興行権を年間約20億円で売却する。

  • 交渉が決裂した場合、球団主催の公式戦の大半は神戸で開催する。

「興行権」とはイベントの開催に関する管理一切を取り仕切る権利のこと。つまり興行権の取得とは入場料収入の総取りが可能な反面、イベントが不調に終わった場合の赤字を引き受けるリスクがある。一方、売却側は一定額の年間収入が確保できる反面、イベントが成功した際の収益に与れない。

とはいえ観客動員数・世論動向を鑑みれば、これは明らかにオリックス有利な提示と見るのが妥当であろう。当然大阪シティドーム側は難色を示す。

結局のところ、両社の合意条件に関する情報が公開されておらず不明であるが、2005年における合併球団の専用球場は大阪ドームとされた。この点からして、近鉄時代から何らかの見直しが行われた可能性が高い。

しかしオリックスがこうした要求を打ち出す以前に、大阪シティドームの経営は危殆に瀕していたのである。

経営破綻、そして会社更生法適用

大阪シティドームは2004年3月期の時点で累積赤字:約235億円、債務超過額:約138億円を計上。また同年度は17億5100万円の赤字を計上しており、何かしらの再建策を講じない限り経営の存続が危うい事態にあった。

このため大阪シティドームは2004年11月1日、銀行等に債権の放棄を求める特定調停を大阪地裁に申し立てた。経営破綻である。

特定調停による再建策では、ドーム施設を筆頭株主である大阪市に売却し、その売却代金を金融機関への返済に充て、残額の債権を放棄してもらう目論見であった。つまり借金を棒引きしてもらうだけで、既存の大阪シティドーム社にメスは入らない。

ところが、2005年6月に出たドーム施設の不動産鑑定額が金融機関側の予想を大きく下回る98億8000万円と発表され、債権放棄額の増大を危惧した金融機関が反発。大阪市の追加支援を求めた。
しかし大阪市も買取金額を上乗せすれば公費負担が増え、市民の反発も大きくなるため調整が難航。結局特定調停を断念し、2005年10月7日に会社更生法の適用を申請した。

負債総額は588億円。大阪シティドーム設立から13年後、大阪ドーム開場から8年後の出来事であった。

オリックス球団への影響

大阪シティドームの会社更生法適用を受け、大阪ドームの運営状況が流動的となったことから、オリックス球団は2005年12月19日に2006年シーズンの専用球場を大阪ドームから神戸へ変更した。

野球協約では専用球場でのホームゲーム開催比率を半分以上と定めているため、球団は大阪の主催試合を当初予定の42試合から34試合に削減し、神戸・大阪の主催試合を同数とした。

オリックスによるドーム買収

施設売却の入札と混乱

会社更生法の適用企業では、裁判所が選任する管財人が経営権・資産の管理処分権を行使する。大阪シティドームでも管財人(浦田和栄弁護士)が再建に向けた更生手続を進めることとなる。

再建に向け2006年2月16日、管財人は大阪ドームの施設と営業権売却の入札を行った。応札企業はタクシー事業を展開するMKグループの大阪エムケイのみで、落札価格は最低入札価格の100億円であった。
MKグループ創業者の青木定雄氏は2005年に大阪ドームを本拠地とする「市民球団構想」を提唱し、共同出資者を募って大阪ドームを買い取り、数年後に市民球団を発足させる旨を公表していた。
だが2006年2月22日、管財人は「大阪エムケイの応札内容は不確実性が高い」として、落札は不適格と判断。入札は不成立に終わる。

京セラへのネーミングライツ売却

この一方で大阪シティドームはネーミングライツ(命名権)の売却を検討。2006年3月2日、京セラが2011年までの5年間における大阪シティドームのネーミングライツを取得したと発表した。(金額は非公表)
当初の命名開始時期は同年4月からであったが、契約の遅れもあり、適用は7月1日からとなった。

オリックスへの施設売却

2月に行われた施設売却の入札が不首尾に終わったため、管財人はドーム施設の公共性の高さなどを理由に大阪市へ施設の買取を要請。大阪市は地元財界に支援を要請したが、財界側で賛否両論が入り乱れ、交渉は暗礁に乗り上げてしまう。

紆余曲折の結果、2006年3月22日に管財人は新たな再建策として、施設を特定の民間企業に売却した上で、数年後に大阪市へ無償譲渡(寄付)する案を記者会見にて発表した。売却先は明らかにされなかったが、一部報道で売却先にオリックスの名前が挙げられ、既に同社への売却が前提とされていた節が伺える。

2006年6月9日、管財人とオリックスの間で売買契約書への調印がなされ、ドームの施設が90億円でオリックス・リアルエステート(現:オリックス不動産)への売却が決定した。
なお当初案で構想された大阪市への寄付は、所有権取得後の管理コストを大阪市側が嫌忌したためになされず、現在に至るまでオリックスグループの所有となっている。

体制の再発足

2006年9月1日、旧大阪シティドーム社が資本金を100%減資(つまり全額撤退)し、オリックス・リアルエステートが90%を出資することで、事実上の新会社として大阪シティドームが発足した。
なお、残りの10%は地元企業から2%ずつ出資を募っている。具体的には関西電力、大阪ガス、ダイキン工業、NTT西日本、近畿日本鉄道の5社である。

こうして2007年1月5日に更生手続は終結し、現在(2022年)までオリックスによる経営が継続している。

またこれを受け、オリックス球団も2007年シーズンの専用球場を神戸から大阪ドームへ戻し、現在に至るまで同球場が本拠地となっている。

付録

経緯まとめ

1992年1月1日:株式会社大阪シティドーム設立。
1997年3月1日:大阪ドーム開場。
2004年6月24日:オリックスが大阪ドームの使用料見直しに言及。
2004年7月1日:オリックス、パ・リーグ理事会でダブルフランチャイズを要望。
2004年7月5日:12球団代表者会議にてオリックス・阪神のダブルフランチャイズを容認。
2004年8月10日:オリックスが大阪シティドームへ興行権の買取を要求。
2004年9月8日:オーナー会議にてオリックス・阪神のダブルフランチャイズを正式承認。
2004年9月24日:オリックスが専用球場を大阪ドームとすることを発表。
2004年11月1日:大阪シティドームが特定調停を申請。
2005年10月7日:大阪シティドームが特定調停を断念、会社更生法を申請。
2005年12月19日:オリックス球団が2006年の専用球場を神戸に変更。
2006年2月16日:ドーム施設の売却入札を実施。大阪エムケイが応札。
2006年2月22日:管財人が大阪エムケイの落札を不適格と判断。
2006年3月2日:大阪ドームのネーミングライツを京セラへ売却。
2006年3月22日:管財人がドーム施設の特定企業への売却方針を発表。
2006年6月9日:オリックス・リアルエステートへのドーム施設売却決定。
2006年7月1日:ドームの名称が「京セラドーム大阪」となる。
2006年9月1日:オリックスを中心とし、大阪シティドームが再発足。
2006年10月6日:オリックス球団が2007年の専用球場を京セラドーム大阪に変更。
2007年1月5日:大阪シティドームの会社更生手続が終結。

参考文献

https://www.apir.or.jp/wp/wp-content/uploads/95_02.pdf

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81001201.pdf

https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalcpij/49/3/49_705/_pdf


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