理想の生き方

妻が死んだ。
俺が見殺しにしたようなものだ。
糖尿病なのにインシュリンを打つことを止めて
高血糖状態で下痢をしたことで脱水症状を起こし
急性合併症で一気に死んだ。

精神と身体の両方の障害者手帳を持っていた妻は
幾度となく入退院を繰り返した。
入院をした病気の種類はさまざま。
心も身体も悪いとこだらけだった。
それでも俺は妻との将来を老後を夢見ていた。
死んだ今でも夢見ている。
本気で見ていた夢は、死んだって簡単に消せはしない。

「奥さんは今は天国であなたの幸せを願っているよ」
僕の周りの人はみんな優しいから、そういった言葉で僕を慰めてくれる。
死んだ人が天国で、遺した人の幸せを願っている。
そう思うことは、人の優しさが生み出した素敵な文化だ。
宗教やオカルトを信じているわけじゃない人が、死んだ人の気持ちを思う。
本当に素敵なことだ。
人の気持ちを想像して思うことが優しさだ。
優しさとは想像力。
想像力が優しさを生んで人を救う。
本当に素敵なことだ。

その優しさが、想像力が、俺には無い。
どうしても妻が天国で俺の幸せを願っているだなんて思えない。
死んだら無だ。
俺が幸せになっても不幸になっても、妻は何も思えない。
妻が今でも俺を見守っていると、そう思う想像力が俺にはない。
誰もが持っているはずの、人にある優しさが、俺にはない。
人の気持ちへの想像力が無いから、10代の俺は父親を追い詰め失踪に追いやって、母と弟とも断絶して、家族を破壊した。
そして今は妻を殺したも同然だ。
人でなしの俺にあるものは、自分勝手な欲求を満たす気持ちだけ。
俺が妻にしてきたことは、優しさなんかじゃなかった。
優しさだったら妻を救えたはずだ。
俺は妻の息の根を止めた。
俺は殺人者も同然だ。

大切に思っているはずなのに、息の根を止めてしまう。
そんな犯罪者的な人格の人なのに、どういうわけかいっちょまえに
人並みの幸せを願ってしまう。
妻を見殺しにした俺が、妻が死んでしまったことに悲しんでいる。
矛盾しすぎだ。
幸せを願う資格なんか無いはずなのに、
悲しむ資格だって無いはずなのに、
馬鹿みたいに強い承認欲求があって、悲しみから抜け出したいなどと思って、優しい言葉をかけてくれる人の言葉にうなずいている。
もういい加減にしろと言いたい。
飯を食えば旨いと思うことが嫌だと感じながら飯を食う。
もう妻は飯を食えないし旨いとは思えないのに、俺だけが旨い旨いと感じて喜んで飯を食らっている。
人でなしもいいとこだ。
俺は俺を殺したいほど憎んでいるのに、俺は俺の憎しみから逃れたくて
憎しみが時間や音楽や人の優しさで薄れるのを待ち望んでいる。
妻を見殺しにして、なんでそこまで鬼畜な自分勝手な思いを抱けるのか。
つくづく自分が嫌になる。

俺は俺を許さない。
大切な人の命をこの世からなくしてしまった俺を絶対に許せない。
この期に及んで悲しみや憎しみが癒えるのを心の底で待っている自分は、
ほんとうに汚らわしい人だ。
親族も妻の友達も俺の周りの人は誰もが、俺のことをほめる。
よく頑張ったと、よく妻をここまで支えたと、感謝をしてくれる。
でも誰も核心には触れては来ない。
妻を助けられた可能性を、糖尿病の治療を再開させることが出来たはずだということを、誰も話さない。
本当は言いたいはずだ。
なんで助けられなかったの?
そう聞きたいはずだ。
妻が死んだのは俺のせいです。
それが答えだ。
誰か俺を罰してはくれないか。
自分で自分を罰せられない情けない俺を、処罰してはくれないだろうか。
死刑宣告を受けて、死にたくない許してくださいと涙ながらに懇願して逃げ回る俺を、嬲り殺してはくれないだろうか。

死ぬことができずに生きていくのなら、
せめて人の役に立て。
人に褒められたり、達成感を感じたりする資格はないから、
誰にも知られず、こっそりと社会や人に奉仕をして生きていく。
楽しむな、求めるな、喜ぶな。
幸せを求めるなどもってのほかだ。
俺の好きな承認欲求丸出しのこうした書き物も最後にしろ。
娯楽を、音楽を、全て捨てろ。
殺した人はもう何も楽しめないのだから、それ相応の罰を受けろ。
ただひっそりと一人きりで生きて、ひっそりと一人きりで死ね。
それこそが、人を見殺しにした人間が出来るただ一つの理想の生き方だ。
どんなに苦しくても寂しくても、誰にも頼らず知られず、
一人きりで必死にくらいついてその生き方で生きろ。

それしかないだろう。
俺が俺を受け入れられる方法は。

よかった、書いているうちに見つかった。
生き方が見えた。



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