ある年の高校演劇県大会の講評

「横断歩道の真ん中で」

 幕開けにジャンプしている熊田の高さにまず感心してしまいました。これは素人じゃないなと思いました。また、陽向の黒板消しのマイムがとても上手でした。全員のセリフも問題なく客席まで伝わっていて、安心して観ていられました。
 事の発端は、紀香とゆなのケンカということになるのですが、幼なじみの二人が今ここでなぜケンカしなくてはいけなかったのか? という掘り下げが若干弱く、そのためか、ゆなが酷いことを言うまでの手続きがちょっと簡単に感じられました。もう少し丁寧に描くべきだったと思います。
 素直な演技は好感が持てます。しかし、セリフと考えていることを常に一致させるような、なんというか裏の無い演技は「いやいや人間そんな単純じゃないでしょう」と感じさせてしまう危険があり、ちょっともったいないなと思いました。言っていることと考えていることが違う事って、ちょくちょくあって、だからこそ、すれ違いや勘違いがドラマを生むのです。
 舞台装置は簡潔ながらも配置が良く考えられていて、効果的です。だからこそ、暗転での転換が多かったのが気になりました。恐らく暗転しなくても転換が成立する場面がいくつもあったでしょう。また、一場面で人の出入りが無いシーンがやや長いと感じました。例えば、最初の中学時代の回想シーンでは、そこで伝えるべき情報が多く、過不足無く伝えるために言葉を尽くすのですが、ここは思い切って省略して、観客の想像力に任せるような組み立てを考えると良いのではと思います。
 独白は登場人物の内面を語れる手法として定番ではありますが、これも素直に内面を語りすぎだと感じました。「わたしはこうなんです」と言われるより「ああこの人はこう思っているのだなぁ」と観客に感じ取ってもらう方が、より多くの情報が伝わると考えます。ではどのような独白にすべきか? これはいろいろな考え方があるかと思いますが、事実や出来事、それに対するリアクションがどのようなものだったか、といった描写を語り、内面を語らないことにするのです。例えば「ひどいこと言っちゃった、どうしよう」を「紀香のあんな顔初めて見た」と言い換えてみたりするのも一つの手です。
 このお話は、簡潔にまとめると、幼なじみの紀香と仲違いしたゆなが、中学時代いじめられていた陽向に共感されることによって、和解することになる。となってしまうと思うのですが、タイトルと終幕の紀香のセリフによって、むしろ紀香の変化にフォーカスすべき話だったのか? と、やや混乱します。となると、陰口をたたかれるのも、陽向に共感されるのも紀香であった方がしっくりくるような気がします。ただ、この問題はそう簡単ではないので、良く考えるべきだと思いますが。
 LGBTを同調圧力を象徴する材料として取り上げますが、扱い方が軽いと思います。これはもっと慎重に扱うべきで、もし取り上げるならば、登場人物の誰かがその当事者でなければならないでしょう。となると、お芝居全体が変わってしまいます。
 登場人物がお芝居の時間の中で何らかの変化を起こす。というのが大体の演劇の流れですが、重要なのは「変化したこと」ではなく「変化していく過程」です。「関係性が変わった」事を描くのではなく「関係性が変わりゆく過程」を丁寧に描くことによって、登場人物の心情や状況が、手に取るように観客にわかる、そんな状態を生み出すのが理想かなと考えています。
 

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