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飛田新地をうつむきながら歩いた日のこと〜「西成でホームレスとデート」のエッセイを読んで

 島田彩さんのエッセイ「ティファニーで朝食を。松のやで定食を。」を読んだ。大阪市は現在「新今宮ワンダーランド」なる新今宮エリアのブランド向上事業に取り組んでおり、島田さんは依頼を受けてこのPR記事を執筆したのだという。

 島田さんのエッセイに詳しいが、新今宮は西成区を含むエリア。西成といえば、「あいりん地区」(旧:釜ヶ崎)と呼ばれる日雇い労働者の街が有名である。例えば、シャブの売り買いが横行しているとか、どこで調達してきたのか知れないポルノや薬品を売る泥棒市が開かれているとか、酔っ払ったおっさんが路上で堂々と寝ているとか……「実話ナックルズ」(大洋図書)に特集されていそうな街というイメージを持つ人は、少なからずいるだろう。最近では、治安が良くなったという話も聞くし、高齢化と生活保護受給者の増加によって「福祉の街」というイメージも広がっている。

 一方、島田さんのエッセイには、そういったステレオタイプの西成は描かれていない。西成で出会ったホームレス男性と過ごした1日の様子がつづられているのだが、島田さんが「ふつうにデートだと思う」としたように、彼女は軽妙な文体で、まるで「映画『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』未満」とでも言うべき世界観の「西成」を活写した。

 当初SNSでは絶賛されたこのエッセイは、徐々に「ホームレスの男性を見下している」「西成やそこに住む人を無自覚に消費した」「貧困をエンタメにしてはいけない」などと批判が吹き荒れ、炎上。大阪市と電通が絡むPRの一環であったという背景も「グロテスク」と物議を醸したのだった。

「独特の甘いにおいもしない」という表現が気になった理由

 私もこのエッセイに、強烈な“後味の悪さ”を感じた。そもそも島田さんは、ホームレスの男性にビニル袋をもらったことがきっかけで、ハンバーグとエビフライ定食を奢ることになるのだが、彼と行動を共にしようと思った理由について、彼女ははっきりと、次のように述べる。

服はぼろぼろだけど清潔感があって、お酒のにおいはしない。独特の甘いにおいもしない。(中略)だから信じてみたいなと思った。

 「独特の甘いにおいもしない」とは、平たく言うと「臭くない」ってことでは。ここで心が折れた。清潔感があって、お酒のにおいがしなくて、「臭くない」……「この条件を満たせば、私はあなたを受け入れてもいい」と言っているようで、何の疑いもなく「上の席」に座るところが怖かった。そして、「独特の甘いにおい」と表現して、人の「臭い」をジャッジする行為、それに伴う罪悪感から逃げようとしているのが気になるのだ。

 この後、島田さんは、男性にタバコを買う代わりに新今宮のツアーガイドを、缶コーヒーを買う代わりに褒め殺してもらうのだが、島田さんと男性の上下関係が浮き彫りになり、読んでいて気持ちがいいものではない。また、銭湯で「髪最後に洗ったんいつ?」と男性に聞き、シャンプーとボディソープを奢る場面での「これでだいたい、(筆者註:貸し借りは)トントンかな! ゲームみたいで、楽しい」というのも、どうだろう。なぜ男性は、なかなか髪を洗うことができないのかと考えた時、この「楽しい」は、あまりにも残酷に感じた。

 そんな島田さんの、男性ひいては西成に対する思いがあからさまに出てしまったのが、1日を振り返る帰り道の場面だ。

「ホームレスとデートって、正直どうなの?」そう思われたかもしれない。でも、私の中では、たまたま出会って、たまたまデートし、たまたま友達になった人。その人がたまたま、家を持たずに暮らしている人だった。それだけのこと。

 「ホームレスとデート」という未知の体験をあれだけ楽しんだのに、男性が家を持たずに暮らしていることを「それだけのこと」と言ってのける。西成の「私が受け入れられる部分」だけを享受して、「受け入れられない部分」は無視をする。

 これが大阪市のPRだと思うと、さらに肝が冷える。旅行者に温かなふれあいを提供する街ですよとPRしながら、その実、ホームレス一人ひとりの暮らしには無関心……大阪市が新今宮の再開発に乗り出す一方、西成の労働者の居場所になっていた「あいりん総合センター」が閉鎖され、敷地内で野宿するホームレスが締め出される事件が起こっている状況は、納得しかない。

飛田新地で働く人の目に、私はどう映ったか

 私が、島田さんのエッセイに動揺したのには理由がある。自戒を込めながら、最後に書き記しておきたい。

 今から約7年前、西成からほど近くにある飛田新地に足を運んだ。当時、飛田新地の元料亭経営者でスカウトマン・杉坂圭介氏の『飛田で生きる』(徳間書店)を読み、興味をそそられた私は、「どんな街かちょっとだけでも見てみたい」と大阪旅行を計画。まず新世界を軽く散策した後、動物園前駅まで移動し、飛田新地を目指した。

 飛田新地が具体的にどこにあるのかは調べなかった。というのも、まさにワンダーランドに飛び込むような気持ちでいたので、「いつの間にか足を踏み入れてしまった」という体験をしたかったのだ。

 駅前のアーケードを進む。うわさに聞くように、路上で酒を飲んでいるおっちゃんたちを見かけると、胸が高鳴った。途中であの有名な「スーパー玉出」の真っ黄色の看板が目に入り、思わず吸い込まれた。店内を見渡すと、ちょっとした違和感を覚えてしまう。スーパーの客というのは主婦が中心のように思うが、ここの玉出の客は、ほとんどが中高年の男性だったのだ。破格の安さだという弁当コーナーをチラッと覗いて、何も買わずに店を出た。

 それから「飛田東映/トビタシネマ」という映画館も発見した。『極道三国志』に『新網走番外地 大森林の決斗』、『実録・夜桜銀次』、そして『男はつらいよ』……映画のタイトルから、この街に暮らす人たちの顔が浮かび上がってくるみたいだと思った。私は存分に「ワンダーランド」を楽しんでいた。

 しかし、橙色の街路灯によって、ほかとは区別されたエリア……まさに飛田新地にたどり着いた私は、うつむいてしまう。

 飛田新地では、各料亭の玄関口に従業員と客引きの女性が座っており、男性客は道を歩きながら、どの店に上がるかを決めるシステムなのだが、こちら側から顔が見えるということは当然、あちら側も私のことが見えているわけである。そう気づいた時、途端に血の気が引いた。

 彼女たちの目に、自分はどう映っているだろう。金を落とさないくせに、観光気分でふらっと訪れ、一方的に「ここはワンダーランド」とレッテルを貼って感動する……飛田新地で働く人にとって、私が「招かれざる客」なのは明白だった。

 こうなるともう、顔を上げて歩くことはできない。地面をじっと見つめながら、でも駆け足になるのもおかしいような気がして、ただ黙々とエリアの外へと向かった。そのため、街の情景はほとんど記憶にないのだが、男性客が行き交う道の真ん中を、自転車に乗った女性――つまり地元の女性が、走り去っていく後ろ姿だけはやたら覚えている。勝手に飛田新地を訪れて、急に肩身が狭くなり、できるだけ目立たないようにと、道の端っこをせかせかと歩く。そんな自分の愚かさをまざまざと思い知らされた。

 島田さんのエッセイを読んで、真っ先に思い出したのが、この飛田新地でのことだった。私は確かにあの時、「無自覚に消費する人」であったし、今後も、そうならないとは言い切れない怖さも感じている。なぜなら「無自覚」だからだ。

 島田さんは、新今宮をこんなふうに表現している。

この世界は、信じられないものが多いけれど、新今宮という街は、「助け合いの街」で、そして、「信じる力が潜む街」だった。

 この「信じること」「信じられること」の尊さを述べた一文を読んで、私は思う。自分の感性を信じない、疑ってみることも、実は誰かと助け合う時には大切なのではないか、と。これから、飛田新地での痛かった自分の記憶を幾度となく思い出しながら、「無自覚」と向き合っていく。

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