令和三年司法試験予備試験一般教養科目

設問1.私達は、文学についてある2つの先入観を持っている。一つ目は文学とは誰もが読むべきものであるという前提である。もう一つ目は文学とは誰にでも読めるものであるという前提である。まず前者はこうである。歴史的に言えば文学とは教養であり、支配階級の特権であった。民主主義が発達した以降は老若男女がこれを教養のため、人格形成のため、人や世を知るため、より良い社会を作るためと読んできた。しかし、文学は誰もが読むべきというものではなく、面白いから読む単なる一つの遊びに過ぎないのである。次に後者はこうである。文学とは誰もが読めるものであり、文学を読まないのは様々な理由で読まないだけであるに過ぎないと。しかし、文学を読むということは、単に字面等を追ったりあらすじを把握することではなく、読解をしながら面白く読むものである。だから、面白く読むことが出来ないから、文学を読んでいないのである。もっとも事は単純ではなく、逆に文学を読んでいる人の全てが面白く読むことが出来る人間だけではない。それどころか文学が面白くないのに、文学を教えたり、文学についてないし、そのものを書く人すらいる。もっとも、そのような人達がいるからかえって文学の価値がより一層高まり高尚なものとなるのである。

設問2.私は、本文における著者の主張には大方賛成である。たしかに文学は誰にでも面白く読めるものではなく、読むことが出来る者の高尚な遊びと言えるのかもしれない。しかし、だからといって私は文学は分かる人にだけ分かれば良いというスタンスはとれない。そこは私の考えとは異なる。むしろ、その読めることが出来る者こそ、その意見や感想を周りの分からない人達に伝えていけば良いと考える。面白さを独り占めするのではなく、皆で分かち合うことこそが、さらなる大きな喜びになるのではないのか。各人、その感受性、思考力、読解力、洞察力、理解力に個人差があるのであるから、同じ文学の一句をとって見ても、そこから得られる情報や意味合い、教訓などは千差万別様々である筈であろう。しかし、人は意見を他者に伝達したり、交換し合うことで議論等を通して自己の人格を形成発展させて成長させることができるのである。文学を読むということは、私は人間の生きざま、人生そのものを読むことと考える。だから、そのような議論を通して得られるものは大きい筈である。具体的には、インターネットや地域のサークル、動向会等を通してそのような文学の面白さを皆に分かち合える場を提供したり、そのような場に積極的に参加していければ良いのではないか。             以上

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